2009年 03月 29日
イスラエル軍は道徳的か? |
久松重光
3月19日に、イスラエルの日刊紙「ハアレツ」で、ガザでの市民虐殺について、イスラエル兵の証言が掲載されましたが、そのことについては21日の朝日新聞でも取り上げられました。その後、23日のハアレツ紙に、ギデオン・レヴィという人のこの件についての論評が載りました。どのくらの人が、ハアレツを読んでいるのか、ギデオン・レヴィのような意見に同調する人がどのくらいいるのか分かりませんが、イスラエルの人が、こういう意見を目にする機会はあるということは、分かります。今後イスラエルがどんな行動に出るかは、世界にとっても、とても重要な問題だと思いますので、イスラエルの国内世論の動向が、少しは分かるかと思い、訳出してみました。
ハアレツ紙というのがどういう傾向の新聞なのかということについては、「ナクバ」の歴史を詳細に研究して、今はイスラエルにいられずに、英国に移住したイラン・パペというイスラエルの歴史家によれば、「リベラルな新聞ではあるが、私のことは決して記事にしない」という程度のリベラルな新聞のようです。コメントをしているラヘリ・ガイという人が、レヴィの『最も道徳的な軍隊』という言葉に異論を唱えていますが、こんなところにも、今のイスラエル国内で発言している人の限界があるようにも思えます。それと同時に、ガザでの大虐殺を知りながら、「それでよし」としているなら、イスラエルの病はとても深いようにも思えますし、僕には、『ガザのすごく面白いところは、これなんだぜ。お前は、道路に人を見つける。それでお前は、簡単に奴を撃つことができるんだ。』などという若いイスラエル兵の発言は、決してイスラエルだけのものでもない、現代社会が持っている攻撃的な傾向のようにも思えてきます。誤訳あったり、読みにくかったら、ごめんなさい。
ギデオン・レヴィの、IDF(イスラエル国防軍)は、「世界中でもっとも道徳的な軍隊」であることを「止めた」という言いまわしは、ある時点ではまさにそれが、最も道徳的な軍隊であったということを暗示している。私は、そのことを問題にする。既に1948年の戦争以来、イスラエルの軍隊は、民族浄化、その他もろもろ枚挙にいとまがないほど大虐殺に従事してきた。いったいいつそれが、道徳的な軍隊であったのだろうか?(そしてそもそもどんな軍隊は、これまで道徳的であったことがあったろうか?)こうした異論はさておき、私は、この記事が好きであり。読むに値すると思っている。
この記事は、知ろうとずっと注意を向けてきたわれわれの多くに、ガザで行われた残虐行為に、新しいものが何もないことを告げており、またイスラエルの軍隊が撤退したときに、残虐行為が終わったわけでもないことを告げている。
さらにはガザで起こった市民の広範な殺戮を、軍が真剣に調査する可能性は、ゼロである。彼は、次のように結論している「心境における大きな変化なしには、変化はやって来ないだろう。われわれは、パレスチナ人も、われわれと同じ人間なのだと承認するまでは、何も変わらないだろう。しかしそのときには、占領は崩壊するだろうが、神が許さない。そうこうしている間にも、次の戦争と世界でもっとも道徳的な軍隊についてぞっとするような証言を準備することになろう。」
ラヘリ・ガイ
http://www.haaretz.com/hasen/spages/1072821.html
IDFはずっと前から「世界でもっとも道徳的な軍隊」であることを止めていた
ギデオン・レヴィ
3月23日(ハアレツ)
なんというショック、なんと言う驚愕。ハアレツ紙は、ガザでの戦争のおり、無実なパレスチナ市民の殺害について語った指揮官や兵士による憂慮すべき報告を公表した。イスラエル国防軍の報道官は、IDF(イスラエル国防軍)には、前例がなく、当該の出来事について支持するような情報も持っていなかったとすばやく応答し、防衛大臣は、「IDFは、世界中でもっとも道徳的な軍隊である」とすばやく応答し、軍の法務官は、IDFは、調査するだろうと語った。
これらのプロパガンダに満ちた馬鹿げた反応のすべては、単に公衆を欺くばかりではなく、恥知らずの嘘をついていることを意味している。IDFは、その兵士たちが、ガザで何をしたか、とてもよく知っていた。IDFは、「世界中で最も道徳的な軍隊」であることを、止めてから久しい。
オラニム・予備—軍事コース?(pre-military-course)の卒業生の証言は、青天の霹靂であった。一人の女性と彼女の子供の殺害し、年配のパレスチナの女性を撃ち殺した兵士たちの報告、どのように彼らが、冷血に殺人を犯したときどのように感じていたのか、彼らは、どのように家財を壊したのか、戦争ではなかったこの戦争では、どうして戦闘さえもなかったのか、を伝える報告。
しかしこれは、青天の霹靂でもなんでもない。知りたいと欲する人々には、たとえば,本紙に載ったアミラ・ハスのガザからの記事を読んだ人々には、すべてはずっと以前から知られていた。すべてが、ガザ攻撃よりずっと前に始まっていた。
兵士たちの犯罪は、この残虐な作戦の間に与えられた命令の当然の帰結であり、兵士たちが、ほぼ5000人のパレスチナ人を殺し、少なくともそのうちの半数が、無辜な市民であり、そのうちの1000人が子供たちとティーンエージャーだった、過去9年間の殺害の自然な継続である。
兵士たちが、ガザから報告するすべてのこと、その一切が、あたかもルーティンになった出来事のように、これら血塗られた年月の間に起こった。異なっていたのは、その方針ではなく、脈絡であった。36年間、武装した軍団がいまだ敵の戦車と遭遇することなく、パイロットが、いまだ敵の戦闘機を鉢合わせすることもなかった軍隊は、戦車の唯一の機能は、市民の車を押し潰すことであり、パイロットの仕事は、近隣の住宅地に爆弾を落とすことであると考えるように訓練されてきた。それは、占領の果実として、数十年間続いてきた人間性喪失のプロセスの一部であり、占領の果実である。
不必要な道徳的な良心の呵責なしこれを行うためには、われわれは、パレスチナ人のいのちや財産は、そもそも何の価値もないのだと考えるように、われわれの兵士を訓練してきた。『強いて言えば、ガザのすごく面白いところは、これなんだぜ
。お前は、道路に人を見つける。それでお前は、簡単に奴を射つことができるんだ。』この「面白い」ことが、ほぼ40年続いた。もう一人の兵士は、血への渇望について語った。この渇望は、もう長年、われわれと共にある。拘束されている間に、兵士によって殺されたイドナ出身の35歳の労働者であったヤセル・タマイジの家族に聞いてみるがいい。また植物状態で発見されたベイト・ウマル出身の16歳の少年のマフディ・アブー・アヤーシの家族に聞いてみるがいい。またガザでの戦争から遠く離れた,もう一人の犠牲者の家族に聞いてみるがいい。
ガザ攻撃に参加した兵士のほとんどは、道徳心を持った若者である。彼らのうちには、どんな任務にも、快く自主的に参加するものもいるだろう。彼らは、通りを渡る年配の女性をエスコートするだろうし、地震の犠牲者を助けようとするだろう。しかしガザで、人間ではないパレスチナ人と向かい合うと、そのこじんまり纏まった考えは、いつも疑わしいものになり、洗脳は、人の感覚を麻痺させ、核になる諸原則は、変化する。彼らが、熟考することもなしに、また彼らの良心と格闘することもなく、友人や恋人に、自分のしたことを話すことさえなく、人を殺し、浮かれたような破壊に従事することができる唯一の理由は、これである。
『IDFは、価値観をもった軍隊であるということについて話させてもらえば、これは、現場の状況でも、分隊レベルの状況でもない、と言わせてほしい』と語った一兵士の発言に関して言えば、IDFは、もう長いこと「価値観」を持った軍隊であることを止めていたが、現場でも、分隊でも、上級司令官でもそれは、失われていた。長年にわたって、何千もの殺害の事例を、軍が調査しないとき、兵士たちへのメッセージは、はっきりしている。それは、トップから来たものである。
われわれのテフロンのようなわれわれの参謀長、ガビ・アシュケナージは、この事件について彼の両手を洗うことはできない。その両手は、血だらけである。予備軍学校の兵士たちが語ったものは、戦争犯罪であり、その廉で裁判にかけられねばならない。でも25日間で1300人の人々を殺し、十万人をホームレスに追いやった軍隊における「原則に基づいた調査」という奇怪なメガネのために、裁判なんて行われないだろう。軍警察の調査は、なにものにも導かないだろう。
IDFは、その兵士や司令官の罪を調査することはできないし、IDFがそうするだろうと期待するのは、馬鹿げている。これらは、『失火』の事例ではなく、ひとつの命令から結果した『放火』の事例なのである。これらは、「若干の腐ったリンゴ」なのではなく、むしろ司令官のスピリットであり、そのスピリットは、邪悪で、もうかなり以前から腐っていたのである。
心境における大きな変化なしには、変化はやって来ないだろう。われわれは、パレスチナ人も、われわれと同じ人間なのだと承認するまでは、何も変わらないだろう。しかしそのときには、占領は崩壊するだろうが、神が許さない。そうこうしている間にも、次の戦争と世界でもっとも道徳的な軍隊についてぞっとするような証言を準備することになろう。
(久松仮訳)
by halunet
| 2009-03-29 10:06
| パレスチナの平和