2008年 12月 04日
地域通貨考 |
〈平和学〉その⑦
わくわく村へのアプローチ おおえまさのり
『狩猟と編み籠』(中沢新一著 講談社刊)を読んでいて、贈与と貨幣について、次のようなコメントに出会った。
経済活動でさえ、この神話的思考の影響に深く浸透されていました。これらの社会では贈与が、物品をとおした人々のあいだのコミュニケーションを実現していました。
贈与は何かを人から贈られたら、それにたいするお返しをする、という暗黙の定めにしたがっておこなわれる互酬システムです。しかしそこでは交換の場合のように、ある価値を持つものを受け取ったら、それに等価の価値をお返しするという、等価交換の規則は働いていません。等価の価値を受け渡していくことよりも、贈与で重要なのは、贈り物をとおして社会全体を見えない霊力が動いていくことである、そして贈り物について霊力が動いていくにつれて、人々は大きな「環」につながっていくようになる、と考えていました。彼らは商品交換は人々を互いに分離してしまうけれど、贈与はその逆に人と人とを結びつけるものである、と考えていたようなのです。(略)
これらの社会では、「ポトラッチ」という盛大なお祭りが、首長の葬式のような特別なときにおこなわれます。ポトラッチは贈与のお祭りです。ホスト役になった首長が別の村の人々をゲストとして自分の村に招待して、豪勢な宴会を開き、たくさんの贈り物をします。この場合の贈り物は普通は貴重品の毛布とか毛皮とかですが、首長はそれよりももっと貴重な品物を抱えて、みんなの前に登場します。それは大きな鋼板で、表面に何かの顔のようなイメージが打ち出しされています。
この鋼板こそ、あらゆる品物の中の最高の貴重品で、それがゲストに呼ばれた村の首長に贈り物として手渡されることもありますが、しばしばそれは「お返しもできないほどに貴重な品物」であり、そんな貴重品にさえ執着しないほど自分は気前がよいのだということを表現するために、ホスト村の首長の手によって破壊されたり、海に投げ込まれてしまうというのです。 (『狩猟と編み籠』より)
この文を読んでいて、阪田さんが「除夜の鐘と同時に、一年間の地域通貨のプラス・マイナスをゼロにしましょう」と言っていたのを思い出した。
プラス・マイナスを「無」の世界に投げ込んでしまうことによって、貨幣がかぎりなく持つ「有」の世界への拘束や誘惑から生を解き放とうとするということ。
貨幣社会に先立つ贈与の社会では、贈与をとおして大きな環につながることが重要であり、さらには贈与という物に最終的な価値があるのではなく、価値は、「無」の中に、物を超えたもの――いのちとか、愛とか、スピリットとか、大いなる自然といったもの――の中にあることを、それは指し示している。
わたしたちは地域通貨をとおして、人と人との、コミュニティーの環をつくり上げようとしている。生命の本質は循環に、いのちを巡らすことにある。いのちが巡らなくなったとき、わたしが壊れ、社会が破綻し、環境が破壊される。
水からいのちを奪い去って、水をたんなる物・資源としてしまったために、わたしたちは水を汚染して何とも思わなくなった。かつてはそこに、いのちとしての水、カミとしての水があった。そのカミをわたしたちは殺してしまったのだ。
水のむこうにある、水の内にあるいのちを見ること。わたしたちは、しばしば、物のむこうにあるものを見るために、「有」を「無」へと投げ込む必要があるのだろう。そうしなければ、わたしたちは「有」の物の世界に閉じ込められて、いのちが巡らなくなり、やがては壊れてゆくということだろう。
いのちを巡らすことに最も大きな価値をおく経済、社会のシステムをつくり上げてゆくことが問われている。自然農などもそうした潮流の内にあり、わたしたちの地域通貨やわくわく村もまたそうした潮流の内にあるものだと思う。
今年の湧湧のポトラッチ(お祭り)において、「有」を「無」へと投げ出すことによって、より大きないのちの巡りをつかみとる、そんな何かができるといいですね。阪田さん、皆さん、更なる提案や企画をよろしく。
わたしたちには、いのちを再生し、持続可能な社会をつくり出す新たな物語を語り出してゆく必要があるのだから。
わくわく村へのアプローチ おおえまさのり
『狩猟と編み籠』(中沢新一著 講談社刊)を読んでいて、贈与と貨幣について、次のようなコメントに出会った。
経済活動でさえ、この神話的思考の影響に深く浸透されていました。これらの社会では贈与が、物品をとおした人々のあいだのコミュニケーションを実現していました。
贈与は何かを人から贈られたら、それにたいするお返しをする、という暗黙の定めにしたがっておこなわれる互酬システムです。しかしそこでは交換の場合のように、ある価値を持つものを受け取ったら、それに等価の価値をお返しするという、等価交換の規則は働いていません。等価の価値を受け渡していくことよりも、贈与で重要なのは、贈り物をとおして社会全体を見えない霊力が動いていくことである、そして贈り物について霊力が動いていくにつれて、人々は大きな「環」につながっていくようになる、と考えていました。彼らは商品交換は人々を互いに分離してしまうけれど、贈与はその逆に人と人とを結びつけるものである、と考えていたようなのです。(略)
これらの社会では、「ポトラッチ」という盛大なお祭りが、首長の葬式のような特別なときにおこなわれます。ポトラッチは贈与のお祭りです。ホスト役になった首長が別の村の人々をゲストとして自分の村に招待して、豪勢な宴会を開き、たくさんの贈り物をします。この場合の贈り物は普通は貴重品の毛布とか毛皮とかですが、首長はそれよりももっと貴重な品物を抱えて、みんなの前に登場します。それは大きな鋼板で、表面に何かの顔のようなイメージが打ち出しされています。
この鋼板こそ、あらゆる品物の中の最高の貴重品で、それがゲストに呼ばれた村の首長に贈り物として手渡されることもありますが、しばしばそれは「お返しもできないほどに貴重な品物」であり、そんな貴重品にさえ執着しないほど自分は気前がよいのだということを表現するために、ホスト村の首長の手によって破壊されたり、海に投げ込まれてしまうというのです。 (『狩猟と編み籠』より)
この文を読んでいて、阪田さんが「除夜の鐘と同時に、一年間の地域通貨のプラス・マイナスをゼロにしましょう」と言っていたのを思い出した。
プラス・マイナスを「無」の世界に投げ込んでしまうことによって、貨幣がかぎりなく持つ「有」の世界への拘束や誘惑から生を解き放とうとするということ。
貨幣社会に先立つ贈与の社会では、贈与をとおして大きな環につながることが重要であり、さらには贈与という物に最終的な価値があるのではなく、価値は、「無」の中に、物を超えたもの――いのちとか、愛とか、スピリットとか、大いなる自然といったもの――の中にあることを、それは指し示している。
わたしたちは地域通貨をとおして、人と人との、コミュニティーの環をつくり上げようとしている。生命の本質は循環に、いのちを巡らすことにある。いのちが巡らなくなったとき、わたしが壊れ、社会が破綻し、環境が破壊される。
水からいのちを奪い去って、水をたんなる物・資源としてしまったために、わたしたちは水を汚染して何とも思わなくなった。かつてはそこに、いのちとしての水、カミとしての水があった。そのカミをわたしたちは殺してしまったのだ。
水のむこうにある、水の内にあるいのちを見ること。わたしたちは、しばしば、物のむこうにあるものを見るために、「有」を「無」へと投げ込む必要があるのだろう。そうしなければ、わたしたちは「有」の物の世界に閉じ込められて、いのちが巡らなくなり、やがては壊れてゆくということだろう。
いのちを巡らすことに最も大きな価値をおく経済、社会のシステムをつくり上げてゆくことが問われている。自然農などもそうした潮流の内にあり、わたしたちの地域通貨やわくわく村もまたそうした潮流の内にあるものだと思う。
今年の湧湧のポトラッチ(お祭り)において、「有」を「無」へと投げ出すことによって、より大きないのちの巡りをつかみとる、そんな何かができるといいですね。阪田さん、皆さん、更なる提案や企画をよろしく。
わたしたちには、いのちを再生し、持続可能な社会をつくり出す新たな物語を語り出してゆく必要があるのだから。
by halunet
| 2008-12-04 19:34
| スピリチュアリティと平和
























