2008年 09月 18日
イラク帰還兵の証言 |
イラク帰還兵アッシュに笑顔がもどる日
はるきよしあき
9月9日大泉でのアッシュくんの話は意外なくらい淡白なものでした。淡白というと語弊がありますが、一番の注目であるイラクでの戦場での体験談はまったくなかったということです。
ボクが幕張で見たにこやかな彼とはかなり印象が違っていて、ちょっと声をかけるのをためらってしまったほどでした。この講演ツアーを仕掛けて一緒に行動している柴野徹夫さんの話によると、たびたび所在が知れなくなるとか、気が向かないとしゃべらないとか、ツアーの間のきまぐれともいえる彼の行動にかなり手を焼いているとのことでした。大泉でも似たようなことがあったそうです。(直前にふらっといなくなり主催者を慌てさせた)
彼の話は通訳をいれて40分足らずのものですが、戦争に対する彼の嫌悪の気持ちはかれの言葉から十分伝わってきました。そして戦場での話は全く触れないというか、イラクの戦場体験を口にできない繊細な彼のこころも、目や身振りを通して聞く側のこころにじわっと伝わってきました。
時には講演でそのことに触れることもあるそうですが、その時は胸をかきむしるような大変苦しい状態になるそうです。そう気軽にぺらぺらしゃべれるとしたら、その方が不気味ですよね。彼の気まぐれな行動の原因は、間違いなく精神的な不安定さにあるのでしょう。戦場体験からくるPTSDに苦しむ若者の一人であることは間違いありません。
彼にとってのこの苦しいツアーを無事に終えて、PTSDの克服は簡単ではないだろうけれど幕張で見せた笑顔を早くとりもどしてくれることを祈りたいです。
彼の話から印象に残ったことを書きます。(彼の言葉の再現ではありません)
「人は武力で平和を実現しようとこれまでやってきて、一度も実現したことがないわけですから、武力での平和は無理だと証明されたのです。次は武力をなくすることで平和を追求していかなくてはなりません」
「自分もまさかと思っていてイラクにいくことになった。日本の若者もまさかと思っているかもしれないが9条をなくしたら同じことがきっと日本の若者に起こることは間違いありません」
以下に彼の話に欠けていた部分は翻訳 福永克紀/TUP冬の兵士プロジェクトチームのメルマガの記事で補えると思います。転載します。
メリーランド州シルバースプリング公聴会
2008年3月13〜16日
ジェイソン・ウォッシュバーンです。合州国海兵隊の伍長でした。退役するまで
の4年間にイラクに3度派遣されています。最初の2回は第4海兵連隊第1大隊C中隊
に、3回目は第1海兵連隊第3大隊兵器中隊に配属されました。イラク侵攻が始
まったときから参戦して、やがて侵攻が終わると、ヒッラに駐留することになっ
た。それが2003年のことです。04年から05年にかけてはナジャフに、05年から06
年にはハディーサに駐留していました。
私が3回派遣されていた間、交戦規則はたびたび変わりました。まるで、振り向
くたびにいつも交戦規則が変わっていると思えるほどだった。その地域の時々の
状況に応じた脅威のレベルがどのように想定されるかによって交戦規則を変える
のだ、というのがいつもの説明でした。そして脅威のレベルが高いほど、凶暴に
反応することを許可され、また期待されるのです。
たとえば、侵攻している間は、どんな相手とやりあう場合でも、まず目標識別を
行なうようにと言われました。しかし、もし目的とする町や都市に脅威があると
分かっていたら、以前にその地区を通過した部隊があって多数の犠牲者を出して
いたなら、基本的にというか、何であれ撃っていいとされていた。自由発砲地帯
とみなされるのです。それで、私たちは町なかを走りぬけ、見たもの何でも、見
えたものすべてを相手にし発砲したものです。まったく規則なんかなかった……
いやつまり、侵攻している時には、標的に対して武力をどれほど使っても、それ
を制限する規則はありませんでした。
通りがかりのひとりの女性のことを覚えています。大きな袋を持っていて、こち
らに向かってくるように見えた。で、私たちは彼女に向けMk19自動擲弾銃をぶっ
放したのです。そして粉塵が収まると、その袋には食料品がいっぱい詰まってい
ただけだと分かりました。彼女は私たちに食べ物を届けようとしていた。それな
のに、私たちはこの人をチリヂリの肉片に吹き飛ばしてしまったのです。
侵攻が終わってブッシュが「任務完了」を宣言したあとでは、交戦規則が劇的に
変わりました。住民を服従させるために実際に発砲するのではなく、いろんな接
近戦というか、直接格闘するタイプのもの、単に取っ組み合いをするような暴力
を使うようになりました。徒歩でパトロールする機会が多くて、それで、だれに
も隊列を横切らせてはならないと命令されていました。ですから、警戒心もない
住民が隊列を通り抜けたり横切ったりしようとすると、銃の床尾で打ちのめした
り、銃口で突き倒したり、蹴り上げたり、何でもしたものです。そうやって、隊
列から放り出してしまうんです。またある時、かごにいっぱい食料を積んだ自転
車に乗った男がやってきて、彼は、そう、ただ走り抜けようとしたんです。それ
で、私たちは、彼にラリアットをかまし、自転車をぶち壊してしまった。なぜっ
て? もちろん隊列を通り抜けようとしたからです。そして……、しかしこれ
が、私たちがやるように求められていたことなのです。
それから、別の例ですが、燃料補給所の警備を命じられたことがありました。一
日の任務が終わって、何事もなかったようなので、皆でトラックに乗り込みまし
た。ちょうど出発しようとしていた時のことです。大勢の人が、イラク人が、燃
料を手に入れようと燃料ポンプのところに押しかけてきました。それで、分隊長
が本部に指示を求めた。返答は、無線から流れた返事は、「どうするかだと?
わかったことだ。やっちまうんだ!」 お気づきだと思いますが、実際にはもっ
と毒々しい言葉でした。それで、私たちはトラックから飛び降り、イラク人に突
撃し、ライフルや拳や足や、ありとあらゆる物でこてんぱんに打ちのめしまし
た。そして、彼らが逃げ去るか、けがをして血を流し意識不明でぶっ倒れたら、
トラックに乗り込みその場を去ったのです。そこで誰かを拘束するようにとか、
尋問するようにとか、命令されることはまったくなかった。めちゃくちゃにして
しまえと言われただけでした。
罪もなく殺された人たちのほとんどは、私が実際に目撃した経験から言えば、運
転中のドライバーで、たいていはタクシー運転手です。このような人たちが、た
だ運転していたというだけで殺された現場に10数回は居合わせています。3度目
の派遣の時には、軍隊の車列が来たら通りすぎることができるように、全てのイ
ラク車両は道端に停車しなければならない規則がありました。もし従わなかった
り、道路に戻るのが早すぎたりすると、彼らは撃ち殺される。もし検問所にむや
みに近づいてきたり、速度が速すぎたりすると、撃ち殺されるのです。
また、車両のIED、つまり車の手製仕掛け爆弾に警戒するよう何度も教えられま
した。こういう車に気をつけろというその描写は、どれもイラクのタクシーの特
徴にぴったりと当てはまる。いいですか、パネルドアがオレンジ色でフロントが
白、あるいはその逆の組み合わせの車には警戒せよと言われる。これじゃイラク
のタクシーが一台残らず当てはまる。まったくこの通りの外見なんだから、車両
爆弾かもしれなくて、警戒しなくちゃならない車なのです。ですから、私たちが
警戒するようにと言われているのと似ている車に乗っていたというだけの理由
で、たくさんの男たちが撃ち殺されました。
もうひとつの例ですが、ハディーサ近郊の私たちの作戦地域にある町で、射殺さ
れたのは、実は町長だったという事件がありました。司令官がこの事件の写真を
私たちに見せました。中隊の全員が集合させられていた場で、事件の全容を、つ
まりどういうふうだったかを示す何枚もの写真を見せたのです。それからこう強
調して言いました。なぜ写真を見せるかというと、フロントガラスの一箇所に集
中したすばらしい弾痕があるからだと。そして、海兵隊の射撃はこうあるべきだ
と、中隊の前で宣言したのです。しかし、殺されたのは、その町の町長だった。
事件の後で、家族に謝罪し補償金を支払う役目を担わされたのが私の分隊でし
た。しかしやることは、ただ出かけて行って、いくらか金を渡して、立ち去るだ
けだった。「まあ、大したことじゃない」と言わんばかりの態度で謝罪すればい
いと思われていた。まるで冗談みたいな話です。
そのほかにも、ほとんど暗黙の了解のもとで勧められていたことがあります。証
拠として残していくための武器を持参することです。3度目の派遣時にはシャベ
ルを持参することになりました。つまり、武器かシャベルを常に持参していれ
ば、うっかりと市民を撃ち殺してしまった場合に、ただその武器を死体の上に放
り投げておくだけで、彼らを反乱分子のように見せかけることができるからで
す。もしくは、私の友人たちがここで証言したように、3度目の派遣時には、も
しイラク人がシャベルを持っていたら、または重そうなバッグを持っていたら、
もしどこかを掘っていたら、特にそれが道路のそばだったら、彼らを撃っていい
と教えられました。ですから、実際にこのような道具や武器を車に積んで運んで
いて、うっかりと罪もない市民を撃ち殺してしまった時には、彼らの死体の上に
放り投げておいて、こう言えるのです。「なーに、あいつは掘っていたんだ。交
戦規則の範囲内さ」。これは、ひろく勧められていたことですが、陰でこっそり
とだけでした。確かにおおっぴらに命じるようなことではありません。しかし、
そうです、とても一般的に行われていたのです。
はるきよしあき
9月9日大泉でのアッシュくんの話は意外なくらい淡白なものでした。淡白というと語弊がありますが、一番の注目であるイラクでの戦場での体験談はまったくなかったということです。
ボクが幕張で見たにこやかな彼とはかなり印象が違っていて、ちょっと声をかけるのをためらってしまったほどでした。この講演ツアーを仕掛けて一緒に行動している柴野徹夫さんの話によると、たびたび所在が知れなくなるとか、気が向かないとしゃべらないとか、ツアーの間のきまぐれともいえる彼の行動にかなり手を焼いているとのことでした。大泉でも似たようなことがあったそうです。(直前にふらっといなくなり主催者を慌てさせた)
彼の話は通訳をいれて40分足らずのものですが、戦争に対する彼の嫌悪の気持ちはかれの言葉から十分伝わってきました。そして戦場での話は全く触れないというか、イラクの戦場体験を口にできない繊細な彼のこころも、目や身振りを通して聞く側のこころにじわっと伝わってきました。
時には講演でそのことに触れることもあるそうですが、その時は胸をかきむしるような大変苦しい状態になるそうです。そう気軽にぺらぺらしゃべれるとしたら、その方が不気味ですよね。彼の気まぐれな行動の原因は、間違いなく精神的な不安定さにあるのでしょう。戦場体験からくるPTSDに苦しむ若者の一人であることは間違いありません。
彼にとってのこの苦しいツアーを無事に終えて、PTSDの克服は簡単ではないだろうけれど幕張で見せた笑顔を早くとりもどしてくれることを祈りたいです。
彼の話から印象に残ったことを書きます。(彼の言葉の再現ではありません)
「人は武力で平和を実現しようとこれまでやってきて、一度も実現したことがないわけですから、武力での平和は無理だと証明されたのです。次は武力をなくすることで平和を追求していかなくてはなりません」
「自分もまさかと思っていてイラクにいくことになった。日本の若者もまさかと思っているかもしれないが9条をなくしたら同じことがきっと日本の若者に起こることは間違いありません」
以下に彼の話に欠けていた部分は翻訳 福永克紀/TUP冬の兵士プロジェクトチームのメルマガの記事で補えると思います。転載します。
メリーランド州シルバースプリング公聴会
2008年3月13〜16日
ジェイソン・ウォッシュバーンです。合州国海兵隊の伍長でした。退役するまで
の4年間にイラクに3度派遣されています。最初の2回は第4海兵連隊第1大隊C中隊
に、3回目は第1海兵連隊第3大隊兵器中隊に配属されました。イラク侵攻が始
まったときから参戦して、やがて侵攻が終わると、ヒッラに駐留することになっ
た。それが2003年のことです。04年から05年にかけてはナジャフに、05年から06
年にはハディーサに駐留していました。
私が3回派遣されていた間、交戦規則はたびたび変わりました。まるで、振り向
くたびにいつも交戦規則が変わっていると思えるほどだった。その地域の時々の
状況に応じた脅威のレベルがどのように想定されるかによって交戦規則を変える
のだ、というのがいつもの説明でした。そして脅威のレベルが高いほど、凶暴に
反応することを許可され、また期待されるのです。
たとえば、侵攻している間は、どんな相手とやりあう場合でも、まず目標識別を
行なうようにと言われました。しかし、もし目的とする町や都市に脅威があると
分かっていたら、以前にその地区を通過した部隊があって多数の犠牲者を出して
いたなら、基本的にというか、何であれ撃っていいとされていた。自由発砲地帯
とみなされるのです。それで、私たちは町なかを走りぬけ、見たもの何でも、見
えたものすべてを相手にし発砲したものです。まったく規則なんかなかった……
いやつまり、侵攻している時には、標的に対して武力をどれほど使っても、それ
を制限する規則はありませんでした。
通りがかりのひとりの女性のことを覚えています。大きな袋を持っていて、こち
らに向かってくるように見えた。で、私たちは彼女に向けMk19自動擲弾銃をぶっ
放したのです。そして粉塵が収まると、その袋には食料品がいっぱい詰まってい
ただけだと分かりました。彼女は私たちに食べ物を届けようとしていた。それな
のに、私たちはこの人をチリヂリの肉片に吹き飛ばしてしまったのです。
侵攻が終わってブッシュが「任務完了」を宣言したあとでは、交戦規則が劇的に
変わりました。住民を服従させるために実際に発砲するのではなく、いろんな接
近戦というか、直接格闘するタイプのもの、単に取っ組み合いをするような暴力
を使うようになりました。徒歩でパトロールする機会が多くて、それで、だれに
も隊列を横切らせてはならないと命令されていました。ですから、警戒心もない
住民が隊列を通り抜けたり横切ったりしようとすると、銃の床尾で打ちのめした
り、銃口で突き倒したり、蹴り上げたり、何でもしたものです。そうやって、隊
列から放り出してしまうんです。またある時、かごにいっぱい食料を積んだ自転
車に乗った男がやってきて、彼は、そう、ただ走り抜けようとしたんです。それ
で、私たちは、彼にラリアットをかまし、自転車をぶち壊してしまった。なぜっ
て? もちろん隊列を通り抜けようとしたからです。そして……、しかしこれ
が、私たちがやるように求められていたことなのです。
それから、別の例ですが、燃料補給所の警備を命じられたことがありました。一
日の任務が終わって、何事もなかったようなので、皆でトラックに乗り込みまし
た。ちょうど出発しようとしていた時のことです。大勢の人が、イラク人が、燃
料を手に入れようと燃料ポンプのところに押しかけてきました。それで、分隊長
が本部に指示を求めた。返答は、無線から流れた返事は、「どうするかだと?
わかったことだ。やっちまうんだ!」 お気づきだと思いますが、実際にはもっ
と毒々しい言葉でした。それで、私たちはトラックから飛び降り、イラク人に突
撃し、ライフルや拳や足や、ありとあらゆる物でこてんぱんに打ちのめしまし
た。そして、彼らが逃げ去るか、けがをして血を流し意識不明でぶっ倒れたら、
トラックに乗り込みその場を去ったのです。そこで誰かを拘束するようにとか、
尋問するようにとか、命令されることはまったくなかった。めちゃくちゃにして
しまえと言われただけでした。
罪もなく殺された人たちのほとんどは、私が実際に目撃した経験から言えば、運
転中のドライバーで、たいていはタクシー運転手です。このような人たちが、た
だ運転していたというだけで殺された現場に10数回は居合わせています。3度目
の派遣の時には、軍隊の車列が来たら通りすぎることができるように、全てのイ
ラク車両は道端に停車しなければならない規則がありました。もし従わなかった
り、道路に戻るのが早すぎたりすると、彼らは撃ち殺される。もし検問所にむや
みに近づいてきたり、速度が速すぎたりすると、撃ち殺されるのです。
また、車両のIED、つまり車の手製仕掛け爆弾に警戒するよう何度も教えられま
した。こういう車に気をつけろというその描写は、どれもイラクのタクシーの特
徴にぴったりと当てはまる。いいですか、パネルドアがオレンジ色でフロントが
白、あるいはその逆の組み合わせの車には警戒せよと言われる。これじゃイラク
のタクシーが一台残らず当てはまる。まったくこの通りの外見なんだから、車両
爆弾かもしれなくて、警戒しなくちゃならない車なのです。ですから、私たちが
警戒するようにと言われているのと似ている車に乗っていたというだけの理由
で、たくさんの男たちが撃ち殺されました。
もうひとつの例ですが、ハディーサ近郊の私たちの作戦地域にある町で、射殺さ
れたのは、実は町長だったという事件がありました。司令官がこの事件の写真を
私たちに見せました。中隊の全員が集合させられていた場で、事件の全容を、つ
まりどういうふうだったかを示す何枚もの写真を見せたのです。それからこう強
調して言いました。なぜ写真を見せるかというと、フロントガラスの一箇所に集
中したすばらしい弾痕があるからだと。そして、海兵隊の射撃はこうあるべきだ
と、中隊の前で宣言したのです。しかし、殺されたのは、その町の町長だった。
事件の後で、家族に謝罪し補償金を支払う役目を担わされたのが私の分隊でし
た。しかしやることは、ただ出かけて行って、いくらか金を渡して、立ち去るだ
けだった。「まあ、大したことじゃない」と言わんばかりの態度で謝罪すればい
いと思われていた。まるで冗談みたいな話です。
そのほかにも、ほとんど暗黙の了解のもとで勧められていたことがあります。証
拠として残していくための武器を持参することです。3度目の派遣時にはシャベ
ルを持参することになりました。つまり、武器かシャベルを常に持参していれ
ば、うっかりと市民を撃ち殺してしまった場合に、ただその武器を死体の上に放
り投げておくだけで、彼らを反乱分子のように見せかけることができるからで
す。もしくは、私の友人たちがここで証言したように、3度目の派遣時には、も
しイラク人がシャベルを持っていたら、または重そうなバッグを持っていたら、
もしどこかを掘っていたら、特にそれが道路のそばだったら、彼らを撃っていい
と教えられました。ですから、実際にこのような道具や武器を車に積んで運んで
いて、うっかりと罪もない市民を撃ち殺してしまった時には、彼らの死体の上に
放り投げておいて、こう言えるのです。「なーに、あいつは掘っていたんだ。交
戦規則の範囲内さ」。これは、ひろく勧められていたことですが、陰でこっそり
とだけでした。確かにおおっぴらに命じるようなことではありません。しかし、
そうです、とても一般的に行われていたのです。
by halunet
| 2008-09-18 07:58
| アメリカの真実
























