2008年 05月 17日
アリシアのいたころ |

<平和学>その4 おおえまさのり
4月26日、アリシア・ベイ=ローレルがやってきた。
1960年代後半から70年代にかけて、地球と共に生きることを選びはじめた世代がいた。都市文明を捨てて、自然の中にコミューンをつくって、オルタナティブなカウンターカルチャーを生きはじめた若者たち。当時アメリカには3000を超えるコミューンがあったといわれる。
北カリフォルニアの、そうしたコミューンの一つ、ウィラーズ・ランチに暮らしはじめたアリシア・ベイ=ローレル。そこでの暮らしの知恵や技を、文もイラストも手書きで描いた『地球の上に生きる』(70年刊)。それは、カウンター・カルチャーの情報誌『ホールアース・カタログ』に紹介されるや、世界的なベストセラーとなり、日本でも72年に草思社から出版された。
これはおそらくこのカタログの中で最良の本であり、人々のための本である。
――ホールアース・カタログ
エコやロハスやパーマカルチャーといった今日の、エコロジカルな生活の先駆けである。だが何よりも彼や彼女たちは、生きることの意味を生の根源から問い直し、生命の源流そのものから新たな生を導き出して、喜々としてエコを選びとったのだった。
彼らは当時、ヒッピー(ヒップな者)、フラワーチルドレンなどと呼ばれた。そし体制からドロップアウト(脱体制)して、オルタナティブな、生命に根ざした文化や文明を夢見、そのリアリティを自ら生きようとした――ナイーブなまでの、原初のみずみずしい生命を。
心を解き開き、魂を、生を解き開きたいという激しい衝動の嵐が吹き荒れた時代。サマー・オブ・ラブの時代。
ビートルズ、ローリング・ストーンズ、グレイトフル・デッド、ジミー・ヘンドリックス、タンジェリン・ドリーム……69年、燃え上がったウッドストック。そしてジョン・レノンの『イマジン』へ……。
向精神薬サイケデリックスが解き開いて見せた世界は、シャーマニズムの再発見からヨーガや瞑想あるいは東西の神秘主義的教義やサイコセラピーといった精神を開示しようとする様々な教えや技法への道を開いていった。
今や世界はわたしにおいて実現され、わたしは世界であった。そして人々は、精神の中に花が咲くのを見た。ニューエイジ、精神世界の夜明けである。
科学においても、存在の根源を捉えようとする量子論において、観察者であるわたしの関与を抜きに存在を語り得ないことが明らかとなり、世界はわたしとの関係において存在することが証し立てられていった。文化人類学の記述もまたそのことを証し立てている。見る者、精神(自覚)としてのわたしの復権である。
それは、わたしの復権であると共に、わたしの超個性という生の神秘をも解き開いてゆくことになった。わたし(自我)というものの死のかなたに開き出てきた生の喜悦に満ちた世界が開き示されてきたのだ。自我(主体)と世界(客体)が滅して一者となったそこには、永遠が輝き、神話が生きていた。
死する他ない人という種は、永遠を求めて、激しく神や神話を希求していったが、今や彼ら若者たちは、失われた物語や神話を、己の内に再発見していったのだ。そしてそれを自ら生きようとした。
考えてみるに、人は物語や神話を生きているものに他ならない。
67年、ベトナム戦争が激化する中、サンフランシスコ(フリー・ペーパー「オラクル」によって提唱された)とニューヨークで、ベトナム反戦の一大デモンストレーション、BE-INがあった。若者たちは手に手に花々を持って集まってきた。
こうして彼らは、わたしたち自身が変わらなければ、体制を変えても、世界は変わりようがない。わたしたち自身の意識の変容こそが、世界を変容してゆくのだと、イデオロギーに基づく体制打倒といった暴力革命から意識革命への道を拓いていった。平和学はここに大きなターニング・ポイントを曲がったのだった。
物のリアリティにとって代わって、意識や魂や心といった精神こそがリアリティであることが自覚され、意識の変容こそが問題であり、かつ意識の変容によってこの物の世界もまたその反映として、意識の顕現として変容されてゆくのだと。
こうして「恍惚の政治学」(ティモシー・リアリー、元ハーバード大学心理学教授であり、サイケデリック革命の立役者)を唱えるものもあった。ジョルジュ・バタイユがいうところの、エロティシズムの極点にある死の受容(わたしなるもの――個我――の死の受容)による、大いなる愛の開花としての平和――Love & Peace――がそこにあった。
わたしたちは、ジョン・レノンの『イマジン』にその在り様を見ることができる。天国なんてない、国境なんてない、みんな今このときを生きて、世界を共有してるんだ、と。
だが、イマジンは凶弾に倒れてしまったのだろうか。
わたしたちの時代は、閉塞し、出口が見つからないように思われる。
広がりゆく格差、止まるところを知らない搾取、人間の機械化、希望の喪失……絶えざる紛争、圧倒的な武力。無意識の領域に広がる恐怖の闇、地球環境の、生命の危機。
イマジン、夢見る力、精神の自発性――それらが無くなってしまったら、世界そのものが無くなってしまう。世界を創り出す力がなくなってしまうからだ。
世界を生み出す力は、野性の側に、自然の側にある。夢見も、倫理も、自由(円融無碍)もだ。
わたしたちの意識は、大きな大きな無意識の環境の中にあるにすぎない。
世界の豊かさは神話的な時間の中にあって、直線的な時間は欠乏を生むばかりだ。
明日にではなく、わたしたちは今ここに生きている。今の中に、過去も、歴史も、明日も、未来も内包されてある。
何よりも、わたしから逃れることのできる人はいない。世界がこのわたしにおいて実現さているからには、わたしから歩み出てゆく他に歩み出てゆくところなど、どこにもない。
ジョルジュ・バタイユのいう生と死の喜悦(エロティシズム)もまた、まさにわたしの内に内在されて在る。物語も、神話もだ。
生は死によって、はじめて、己を開くことも、今もまた、変わりはしない。
それは生の究極の神秘でありつづけている。
そこに世界変容の秘密が隠されている。
60年代後半から70年代を振り返り見つつ、あらためて、そう思われてくる。
世界は、凶弾によっては倒されようがない――世界はイマジンによって、ことばによって立ち現されつづける他ないものだから。
by halunet
| 2008-05-17 17:08
| スピリチュアリティと平和
























