2008年 03月 20日
生命の原理に土台を置いた平和学を |
イカの哲学ー21世紀の平和学
おおえまさのり
『イカの哲学』(中沢新一・波多野一郎著 集英社新書 714円)というユニークなタイトルの本が出た。1965年に刊行された、在野の哲学者、波多野一郎の小冊子『烏賊の哲学——a key for the peace——』に啓発された中沢新一が「21世紀の平和学の土台」をつくろうとする試みの本である。
中沢は爆笑問題の太田光との共著『憲法九条を世界遺産に』で、「『普通の国家』は、軍隊を持ち、自衛のための戦争をおこなうことを正当化する憲法を持っている。ところが日本国憲法は第九条において、紛争解決の手段としての戦争を永久に放棄すると語っている。「普通の国家」の常識から見れば、まことに尋常ならざる憲法であり、一見すると、生命体の原理にも反しているように思われる。しかし生命体は、DNAの存続というもっとも重大な事態に直面したとき、それとはまったく反対の行動にでる。自分の体のうちに自分とは異なる生命体を宿したとき、女性の身体は、異物を排除する免疫機構を部分的に解除して、その異物を数ヶ月にわたって、自分の体の中で育てるという驚くべき行為に出る。生命体の中には、自己と他者を区別して、たがいに争う戦争のメカニズムを発動させないための、別種の生命思考が働いている。生命論とのかかわりで見たとき、憲法九条はそのような別種の生命原理に対応しているのではないか…… 」(『イカの哲学』おわりにより)と語ったが、その直感をさらに推し進めようとしたとき、かつて出会っていた『烏賊の哲学』がひらめき出てきたという。
原著『イカの哲学』の著者・波多野一郎は、1944年学徒動員で、航空隊に配属され、45年7月南満州で特攻攻撃命令が出るも、ソ連軍侵攻のため出撃できず、捕虜となり、零下40度にもなるシベリアの炭鉱で強制労働に従事、4年後に帰国を果たす。死を覚悟した特攻隊体験、そして強制労働と共産主義教育のシベリア抑留体験から、平和への鍵を探して、帰国の2年後、ソ連の対極のアメリカへ。スタンフォード大で哲学専攻。54年帰国。65年その思索を『烏賊の哲学』として刊行。69年脳腫瘍で亡くなっている。
原著『イカの哲学』は、本書に収録されているので、それを読んでいただくとして、ここでは中沢の論を中心にして見てみたい。
〈バタイユの生命論〉
「戦争を生み出すのは人類の心の構造なのであるから、自分だけはまるでそれとは無関係でいられるような顔をして、外から戦争を批判するやり方は、少しも現実的でない。現実性をもった唯一可能な方法は、戦争を生む当の人類の心の中に踏み込んで、そこで戦争を乗り越える原理を見いだそうとすることだ」として、中沢は、戦争と平和を抱えるわたしたちの心のそこから出発しようとする。
平常態のわたしたちの心には、生命の本質として、戦争と平和が内在している。生命は本質的に、自己と非自己を分け、異質な非自己を自分の外に排除しようとする免疫機能を持っている。だがそれと同時に、精子と卵子の結合のように、個体の死をかけて、新しい生命(生命の連続性)を生み出そうという衝動をも持っている。そのことを明らかにしたのがジョルジュ・バタイユであった。
バタイユは、生命には、個体性を壊してまでも、生命の連続性を自分の内に引き入れようとする「エロティシズム」が内在されているという。自己の死を賭けて一者へと超え出てゆこうとする超絶的衝動だ。それは、人にあっては、性愛、宗教、芸術、戦争に見られる。
エロティシズムの中にも戦争と平和が内在されている。狩猟採取社会においては、狩
りという動物との戦い、また他の部族の戦いも共に、一つの超絶的祝祭でもあった。それ故、狩りの後に、人々は動物たちに感謝を捧げて、その霊を送り返したり、他の部族と和解して結婚をしたりしている。
だが国家が形成されるや、それは非連続的な、他の収奪と化していった。
かくして「エロティシズムは」と中沢はいう「戦争が生命の奥にセットされた『個体
性を壊してまでも連続性を自分の内に引き入れようとする』エロティシズムの原理を、ネガティブな形でしか実現していないという理由で、戦争を否定する。
その戦争否定は、平常態の平和がおこなう戦争否定よりも、はるかに根源的である。平常態の平和は、安穏な生活を保障してくれる。しかし、そこには法や掟や労働はあっても、世界との開かれたコミュニケーションはない。つまり、そこには愛が欠けている。愛が実現されるためには、人類の心には、エロティシズムが活発に動き出す必要がある。
……『イカの哲学』の著者の体験と思考がたどり着いたのは、このエロティシズム態
の平和なのである」と。
〈イカの実存——動物と人間の連続性〉
アメリカに渡った波多野は、学資のアルバイトに、イカの加工工場に出かけた時、イカをすくってコンベアに載せる作業中に、まぎれもないイカの実存に出会ってしまったという。
「そうだよ!大切なことは実存を知り、且つ、感じるということだ。たとえ、それが一疋のイカの如くつまらぬ存在であろうとも、その小さな生あるものの実存を感知するということが大事なことなのだ。この事を発展させると、遠い距離にある異国に住む人の実存を知覚するという道に達するに相違ないのだ。
……人間以外の生物の生命に対しても敬意を持つことに関心のない在来の人間尊重主義は理論的に弱く、そして、動物達と人間を区別しようとする境界線がとかく曖昧になり勝ちであります。それ故、在来の単なるヒューマニズムは、われわれの社会で、しばしば叫ばれるものであるけれども、それ自体には、戦争を食い止めるだけの力が無い」(波多野)
イカの実存との出会いから、動物と人の、そして人と人との連続性が広がる中でヒューマニズムの限界が見て取られ、やがて平和とエコロジーに到る道までも視野に入ってきたのである。
〈超戦争と超平和〉
わたしたちは、1945年8月のヒロシマ、ナガサキへの原爆投下以降、かつてない脅威の時代に生きている。
「世界は超戦争勃発の可能性に、いまもさらされていると言える。しかし私たちの国だけが、この限界を超える戦争を、現実に体験させられた。日本人はそのとき、実存を奪われたイカの群れであり、イカの群れの上に漁網が投げ落とされるようにして、原子爆弾は投下された。
その意味で、日本はもはや『普通の国』には、なりようがないのである。普通の国は、 戦争を回避し平和を実現するための現実的手段を考え、実行するだけで十分だ。ところが 私たちの国は、核戦争を体験した唯一の国として、戦争を超えた戦争である超戦争に向かい合う原理、これを私は仮に『超平和』と名付けようと思う…
…。
超戦争は、いまも現実の可能性である。それならば、超平和の思想に現実性のなかろう はずがない。超平和は平和の単純な延長上にはあらわれない。平和は思想的なジャンプを しなければ、超平和には触れることができないのだ。
……『超平和』の概念は、一度だけ、ただ一度だけ、国の立ち上げの原理(コンスティチューション)である憲法として、表現されたことがある。言うまでもなく、日本国憲法第九条の文言である。
……『イカの哲学』の思想がすぐれているのは、平常態の平和を維持するために戦争に反対するというレベルを超えて、戦争を発生させる人類の『心』の基底部分に立って、核兵器使用という形の超戦争の現実にも立ち向かうことのできる、もっとも堅固な土台の上に立つ平和思考を模索したところにある。
……著者の波多野一郎は、北米モントレーの漁港で、『イカの実存』を知ることが、平和を実現するための現実的な実践すべての、もっとも堅固な土台をつくることになるのだと気づいた。私たちはさらに、地球環境の危機に立ち向かうべきエコソフィア(エコロジーの知恵)にとっても、それがすべての土台となることを確認できる」と中沢は結んでいる。
イカの実存を感得するという神話的思考が、死を内包したエロティシズムを開かせて、自他を共に包み超えて、新たな世界を創出してゆく〈21世紀の平和学〉。
神話的思考を、エロティシズムを、超平和を発露させる深い深い実存との出会い——
そこから新たな地平がつむぎ出されてくる。
(わくわく村新聞53号から)
おおえまさのり
『イカの哲学』(中沢新一・波多野一郎著 集英社新書 714円)というユニークなタイトルの本が出た。1965年に刊行された、在野の哲学者、波多野一郎の小冊子『烏賊の哲学——a key for the peace——』に啓発された中沢新一が「21世紀の平和学の土台」をつくろうとする試みの本である。
中沢は爆笑問題の太田光との共著『憲法九条を世界遺産に』で、「『普通の国家』は、軍隊を持ち、自衛のための戦争をおこなうことを正当化する憲法を持っている。ところが日本国憲法は第九条において、紛争解決の手段としての戦争を永久に放棄すると語っている。「普通の国家」の常識から見れば、まことに尋常ならざる憲法であり、一見すると、生命体の原理にも反しているように思われる。しかし生命体は、DNAの存続というもっとも重大な事態に直面したとき、それとはまったく反対の行動にでる。自分の体のうちに自分とは異なる生命体を宿したとき、女性の身体は、異物を排除する免疫機構を部分的に解除して、その異物を数ヶ月にわたって、自分の体の中で育てるという驚くべき行為に出る。生命体の中には、自己と他者を区別して、たがいに争う戦争のメカニズムを発動させないための、別種の生命思考が働いている。生命論とのかかわりで見たとき、憲法九条はそのような別種の生命原理に対応しているのではないか…… 」(『イカの哲学』おわりにより)と語ったが、その直感をさらに推し進めようとしたとき、かつて出会っていた『烏賊の哲学』がひらめき出てきたという。
原著『イカの哲学』の著者・波多野一郎は、1944年学徒動員で、航空隊に配属され、45年7月南満州で特攻攻撃命令が出るも、ソ連軍侵攻のため出撃できず、捕虜となり、零下40度にもなるシベリアの炭鉱で強制労働に従事、4年後に帰国を果たす。死を覚悟した特攻隊体験、そして強制労働と共産主義教育のシベリア抑留体験から、平和への鍵を探して、帰国の2年後、ソ連の対極のアメリカへ。スタンフォード大で哲学専攻。54年帰国。65年その思索を『烏賊の哲学』として刊行。69年脳腫瘍で亡くなっている。
原著『イカの哲学』は、本書に収録されているので、それを読んでいただくとして、ここでは中沢の論を中心にして見てみたい。
〈バタイユの生命論〉
「戦争を生み出すのは人類の心の構造なのであるから、自分だけはまるでそれとは無関係でいられるような顔をして、外から戦争を批判するやり方は、少しも現実的でない。現実性をもった唯一可能な方法は、戦争を生む当の人類の心の中に踏み込んで、そこで戦争を乗り越える原理を見いだそうとすることだ」として、中沢は、戦争と平和を抱えるわたしたちの心のそこから出発しようとする。
平常態のわたしたちの心には、生命の本質として、戦争と平和が内在している。生命は本質的に、自己と非自己を分け、異質な非自己を自分の外に排除しようとする免疫機能を持っている。だがそれと同時に、精子と卵子の結合のように、個体の死をかけて、新しい生命(生命の連続性)を生み出そうという衝動をも持っている。そのことを明らかにしたのがジョルジュ・バタイユであった。
バタイユは、生命には、個体性を壊してまでも、生命の連続性を自分の内に引き入れようとする「エロティシズム」が内在されているという。自己の死を賭けて一者へと超え出てゆこうとする超絶的衝動だ。それは、人にあっては、性愛、宗教、芸術、戦争に見られる。
エロティシズムの中にも戦争と平和が内在されている。狩猟採取社会においては、狩
りという動物との戦い、また他の部族の戦いも共に、一つの超絶的祝祭でもあった。それ故、狩りの後に、人々は動物たちに感謝を捧げて、その霊を送り返したり、他の部族と和解して結婚をしたりしている。
だが国家が形成されるや、それは非連続的な、他の収奪と化していった。
かくして「エロティシズムは」と中沢はいう「戦争が生命の奥にセットされた『個体
性を壊してまでも連続性を自分の内に引き入れようとする』エロティシズムの原理を、ネガティブな形でしか実現していないという理由で、戦争を否定する。
その戦争否定は、平常態の平和がおこなう戦争否定よりも、はるかに根源的である。平常態の平和は、安穏な生活を保障してくれる。しかし、そこには法や掟や労働はあっても、世界との開かれたコミュニケーションはない。つまり、そこには愛が欠けている。愛が実現されるためには、人類の心には、エロティシズムが活発に動き出す必要がある。
……『イカの哲学』の著者の体験と思考がたどり着いたのは、このエロティシズム態
の平和なのである」と。
〈イカの実存——動物と人間の連続性〉
アメリカに渡った波多野は、学資のアルバイトに、イカの加工工場に出かけた時、イカをすくってコンベアに載せる作業中に、まぎれもないイカの実存に出会ってしまったという。
「そうだよ!大切なことは実存を知り、且つ、感じるということだ。たとえ、それが一疋のイカの如くつまらぬ存在であろうとも、その小さな生あるものの実存を感知するということが大事なことなのだ。この事を発展させると、遠い距離にある異国に住む人の実存を知覚するという道に達するに相違ないのだ。
……人間以外の生物の生命に対しても敬意を持つことに関心のない在来の人間尊重主義は理論的に弱く、そして、動物達と人間を区別しようとする境界線がとかく曖昧になり勝ちであります。それ故、在来の単なるヒューマニズムは、われわれの社会で、しばしば叫ばれるものであるけれども、それ自体には、戦争を食い止めるだけの力が無い」(波多野)
イカの実存との出会いから、動物と人の、そして人と人との連続性が広がる中でヒューマニズムの限界が見て取られ、やがて平和とエコロジーに到る道までも視野に入ってきたのである。
〈超戦争と超平和〉
わたしたちは、1945年8月のヒロシマ、ナガサキへの原爆投下以降、かつてない脅威の時代に生きている。
「世界は超戦争勃発の可能性に、いまもさらされていると言える。しかし私たちの国だけが、この限界を超える戦争を、現実に体験させられた。日本人はそのとき、実存を奪われたイカの群れであり、イカの群れの上に漁網が投げ落とされるようにして、原子爆弾は投下された。
その意味で、日本はもはや『普通の国』には、なりようがないのである。普通の国は、 戦争を回避し平和を実現するための現実的手段を考え、実行するだけで十分だ。ところが 私たちの国は、核戦争を体験した唯一の国として、戦争を超えた戦争である超戦争に向かい合う原理、これを私は仮に『超平和』と名付けようと思う…
…。
超戦争は、いまも現実の可能性である。それならば、超平和の思想に現実性のなかろう はずがない。超平和は平和の単純な延長上にはあらわれない。平和は思想的なジャンプを しなければ、超平和には触れることができないのだ。
……『超平和』の概念は、一度だけ、ただ一度だけ、国の立ち上げの原理(コンスティチューション)である憲法として、表現されたことがある。言うまでもなく、日本国憲法第九条の文言である。
……『イカの哲学』の思想がすぐれているのは、平常態の平和を維持するために戦争に反対するというレベルを超えて、戦争を発生させる人類の『心』の基底部分に立って、核兵器使用という形の超戦争の現実にも立ち向かうことのできる、もっとも堅固な土台の上に立つ平和思考を模索したところにある。
……著者の波多野一郎は、北米モントレーの漁港で、『イカの実存』を知ることが、平和を実現するための現実的な実践すべての、もっとも堅固な土台をつくることになるのだと気づいた。私たちはさらに、地球環境の危機に立ち向かうべきエコソフィア(エコロジーの知恵)にとっても、それがすべての土台となることを確認できる」と中沢は結んでいる。
イカの実存を感得するという神話的思考が、死を内包したエロティシズムを開かせて、自他を共に包み超えて、新たな世界を創出してゆく〈21世紀の平和学〉。
神話的思考を、エロティシズムを、超平和を発露させる深い深い実存との出会い——
そこから新たな地平がつむぎ出されてくる。
(わくわく村新聞53号から)
by halunet
| 2008-03-20 08:24
| スピリチュアリティと平和