2008年 02月 16日
カントの平和論が新鮮 |
永遠平和のために おおえまさのり
哲学者イマヌエル・カントの小冊子『永遠平和のために』(池内紀訳・集英社)の新訳が刊行されて話題になっている。1795年、213年前に刊行され、日本では江戸時代だ。
編集者によると、池田晶子さんの『14歳からの哲学』の平和版として『16歳からの平和論』を目指したという。藤原信也、野町和嘉、江成常夫の写真をふんだんに配して、とても読みやすい構成になっている。戦争に明け暮れた当時のヨーロッパにおいて、やむにやまれず筆をとった哲学者カントの永遠の平和を実現するための考察である。その考察は、第一次、第二次世界大戦を経て、なお、作り出された対テロ戦争の恐怖に振り回されながら戦争の世紀を生きる200年後のわたしたちに、とても新鮮に映る。人間と国家の在りようの、根源からの、時間を超えた、深い問いがそこにあるからだろう。
「将来の戦争を見こして結んだ平和条約は、平和条約ではない。なぜなら、それは単なる休戦にすぎず、敵対関係をひきのばしただけであって、平和ではないからだ。平和というのは、すべての敵意が終わった状態」だと彼はいう。そして「常備軍はいずれ、いっさい廃止されるべきである。なぜなら、常備軍はつねに武装して出撃の準備をととのえており、それによって、たえず他国を戦争の脅威にさらしている。おのずと、どの国もかぎりなく軍事力を競って軍事費が増大の一途をたどり、ついには平和を維持するのが短期の戦争以上に重荷となり、常備軍そのものが先制攻撃をしかける原因になってしまう。また殺したり、殺されたりするための用に人をあてるのは、人間を単なる機械あるいは道具として他人(国家)の手にゆだねることであって、人格にもとづく人間性の権利と一致しない」
日本国憲法第9条をめぐる論議において、常備軍を持たない国家などありえないとして、憲法改正が声高に叫ばれているが、カントはここにおいてすでに、常備軍を持つことそのものが先制攻撃をしかける原因になっていることを賢明に見抜いている。
「いかなる国も、よその国の体制や政治に、武力でもって干渉してはならない。いったい、どのような権利があってよその国に干渉できるのか?」
そして今話題になっている集団的自衛権について「国の軍隊を、共通の敵でもないべつの国を攻撃するため他の国に貸すなどのことも同様の誤りである。その際、国民は気ままに使われ、消費されるだけである」
「戦争状態とは、(そこでは法的な効力をもって裁決する場がないため)武力によって正義を主張するという悲しむべき非常手段にすぎない。この状態では、どちらが正義であると裁定されることはありえない(ここには裁判官が存在しないからである)。どちらに正義があるか決定するのは、戦争の結果でしかない。
……さらに考えを進めると、殲滅戦にあっては、交戦国がともに殲滅され、それとともにすべての正義も消滅するから、永遠平和はようやく巨大な墓地の上に実現する」
そして永遠平和を実現するためには国際的な平和連合をつくらなければならないという。
「たとえ理性が道徳的立法の最高の力として戦争を断罪し、平和状態をあるべき義務とするにせよ、民族間の契約がなければ平和状態は確立されず、保障されもしない。
そのためにも『平和連合』とでも名づけるような特別の連合がなくてはならない。
これは『平和条約』とはべつのものであって、平和条約は一つの戦争を終わらせるだけであるが、平和連合は、あらゆる戦争を永遠に終わらせることをめざしている。この連合が求めるのは、何らかの国家権力を獲得することではなく、おのおのの国家それ自体と、連合した国々の自由を確立し、保持することである」
またそれらの連合を実現する国家の在り方にも言及している。
「厳密にいうと民主制は必然的に専制になる。というのは、民主制の行政権のもとでは、一人(同意しない者)がいても全員の賛同とひとしく、その結果として、全員ではない全員が決めていくことになる」として、専制を回避しうるような共和制に夢を託している。
「永遠平和は空虚な理念ではなく、われわれに課せられた使命である」
(わくわく村しんぶん2月号より)
哲学者イマヌエル・カントの小冊子『永遠平和のために』(池内紀訳・集英社)の新訳が刊行されて話題になっている。1795年、213年前に刊行され、日本では江戸時代だ。
編集者によると、池田晶子さんの『14歳からの哲学』の平和版として『16歳からの平和論』を目指したという。藤原信也、野町和嘉、江成常夫の写真をふんだんに配して、とても読みやすい構成になっている。戦争に明け暮れた当時のヨーロッパにおいて、やむにやまれず筆をとった哲学者カントの永遠の平和を実現するための考察である。その考察は、第一次、第二次世界大戦を経て、なお、作り出された対テロ戦争の恐怖に振り回されながら戦争の世紀を生きる200年後のわたしたちに、とても新鮮に映る。人間と国家の在りようの、根源からの、時間を超えた、深い問いがそこにあるからだろう。
「将来の戦争を見こして結んだ平和条約は、平和条約ではない。なぜなら、それは単なる休戦にすぎず、敵対関係をひきのばしただけであって、平和ではないからだ。平和というのは、すべての敵意が終わった状態」だと彼はいう。そして「常備軍はいずれ、いっさい廃止されるべきである。なぜなら、常備軍はつねに武装して出撃の準備をととのえており、それによって、たえず他国を戦争の脅威にさらしている。おのずと、どの国もかぎりなく軍事力を競って軍事費が増大の一途をたどり、ついには平和を維持するのが短期の戦争以上に重荷となり、常備軍そのものが先制攻撃をしかける原因になってしまう。また殺したり、殺されたりするための用に人をあてるのは、人間を単なる機械あるいは道具として他人(国家)の手にゆだねることであって、人格にもとづく人間性の権利と一致しない」
日本国憲法第9条をめぐる論議において、常備軍を持たない国家などありえないとして、憲法改正が声高に叫ばれているが、カントはここにおいてすでに、常備軍を持つことそのものが先制攻撃をしかける原因になっていることを賢明に見抜いている。
「いかなる国も、よその国の体制や政治に、武力でもって干渉してはならない。いったい、どのような権利があってよその国に干渉できるのか?」
そして今話題になっている集団的自衛権について「国の軍隊を、共通の敵でもないべつの国を攻撃するため他の国に貸すなどのことも同様の誤りである。その際、国民は気ままに使われ、消費されるだけである」
「戦争状態とは、(そこでは法的な効力をもって裁決する場がないため)武力によって正義を主張するという悲しむべき非常手段にすぎない。この状態では、どちらが正義であると裁定されることはありえない(ここには裁判官が存在しないからである)。どちらに正義があるか決定するのは、戦争の結果でしかない。
……さらに考えを進めると、殲滅戦にあっては、交戦国がともに殲滅され、それとともにすべての正義も消滅するから、永遠平和はようやく巨大な墓地の上に実現する」
そして永遠平和を実現するためには国際的な平和連合をつくらなければならないという。
「たとえ理性が道徳的立法の最高の力として戦争を断罪し、平和状態をあるべき義務とするにせよ、民族間の契約がなければ平和状態は確立されず、保障されもしない。
そのためにも『平和連合』とでも名づけるような特別の連合がなくてはならない。
これは『平和条約』とはべつのものであって、平和条約は一つの戦争を終わらせるだけであるが、平和連合は、あらゆる戦争を永遠に終わらせることをめざしている。この連合が求めるのは、何らかの国家権力を獲得することではなく、おのおのの国家それ自体と、連合した国々の自由を確立し、保持することである」
またそれらの連合を実現する国家の在り方にも言及している。
「厳密にいうと民主制は必然的に専制になる。というのは、民主制の行政権のもとでは、一人(同意しない者)がいても全員の賛同とひとしく、その結果として、全員ではない全員が決めていくことになる」として、専制を回避しうるような共和制に夢を託している。
「永遠平和は空虚な理念ではなく、われわれに課せられた使命である」
(わくわく村しんぶん2月号より)
by halunet
| 2008-02-16 14:58
| スピリチュアリティと平和
























