2007年 07月 26日
9条を守ることの本当の意味 ② 久松→小松原 |
久松重光
いろいろ難しい問題を提起してくれて有難う。ひとつずつ考えてみたいのですが、2回に分けてメールします。
まず、哲(小松原)ちゃんの言う、2項対立の思考の問題です。僕も、かねてより、この2項対立の思考が、不毛の根源であると思ってきました。昨日も、新宿で、一水会VS9条ネットの候補者と
の路上討論がありました。でも聴衆は、ほとんど反応なしでした。じゃどんな議論をすれば、聴衆が振り向くか、といえば、長い2項対立の歴史の中で僕は、どんな議論も、現況では、聴衆は聞く耳もたぬであろうとかなり悲観的ですが、悲楽観的に考えて、私見を述べてみます。
先の一水会VS9条ネットの路上討論ですが、ああした枠組みで、考えることは、今ではかなりナンセンスになってしまっていて、一水会の面々も、自分たちの立論が無効であるのをうっすら気づいているようでした。もと赤軍派の議長である塩見氏が司会でやった議論ですが、僕にも多分大方の人にとっても、何か骨董品のようでちっとも面白くなかったと思いますが、確か鈴木邦男氏だったとおもういますが、「昔は、9条が日本をだめにした諸悪の根源だと思っていたが、最近は、それだけではない、と思うようになった」といっているのが印象的でした。そんなこと当たり前なことなのに、僕は思っていますが、9.11以降の状況を見て少しは気づいてきているようです。双方とも、米国政府の隷属には、反対ということで一致していたようでが・・・。
《私としては、このことを考えるにあたって、以下の2項対立に陥ることは「よくない問い方」(ベルクソン)であると思います。即ち、国家はいる(A)のか、いらない(non−A)のか、という2項対立です。》
いみじくも、哲ちゃんは、ベルグソンの名前を出しましたが、僕は、ベルクソンの「生の哲学」には比喩以上の大きなヒントがあるように思えます。ベルグソンは、弁証法というものを嫌っていました。それには、大きな理由があるように思えます。彼は、問いは、うまく立てられたときには、問いの中に答えは出ている、とも言っています。
戦後の日本の政治のシーンは、基本的に国家はいるのか、いらないのか、という2項対立でやってきたように思えます。ひとつには、左翼の、革命の暁には最終的に国家は、廃棄されるべき、というイデオロギーと、もうひとつには、ものすごく古い、アナクロな復古主義の対立です。日本のことですから曖昧にされて語れてきましたが、でもそのおおすじの思考の骨格は、そうだったと思います。
その結果、日本国憲法の前文と9条が、語っている新しい国家像を、誰もイメージすることなく、ここまで来てしまったように思えます。
暴力装置である軍隊を持たない国家というのは、ひとつには外的な政治上の要因と、また内的には観念上の問題から、誰も想像できなかったように思えます。
僕は、日本国憲法とりわけ、9条のことを考えるとき、1947年という第二次大戦と東西冷戦の狭間に成立した事を、とても不思議なことと思っています。他のMLでも、議論したことですが、ぼくが「押し付け」憲法かどうか、といった議論に興味をもてない理由でもあります。押し付けかどうかという歴史上の議論で言えば、僕は「押し付け」である、と思っています。というよりも、歴史上の実証的な押し付けかどうか、という議論をするよりも、もっと感じ取るべき側面が、この憲法にはあるんだ、と言いたいのです。
弁証法は、歴史的生起を、歴史的必然とみなしますが、ぼくは、この憲法の偶然的成立を重要視しているのです。日本軍国主義と原爆の投下という歴史的帰結として、9条が生まれたという事実を否定としようというわけではありません。でもそれは、歴史主義的な論説です。
僕が、「日本の青空」という護憲映画をあまり評価しないのは、その外的な歴史上の経緯のみで、この憲法の根拠を正当ずけようと思っているからです。それには、また反論も可能なよう
に思えます。そしてこの見方に含まれる思考法では、いつも過去の軍国主義による戦争の反省が、含まれます。過去の反省を踏まえて、この憲法ができたというのは、それはそれで、正しいと思っていますが、それだけでは抜け落ちてしまう視点というものがあるように思います。当時の憲法委員の芦田均でさえ、「われらが進んで戦争の否認を提唱するのは、単り過去の依って戦争の忌むべきことを痛感したという理由ばかりへなく、世界を文明の壊滅から救わんとする理想に発足することは言うまでもありませぬ」といっているように、もうひとつの未来的視点を示す必要がある、と思うのです。やはりそこには、戦勝国、敗戦国問わず、原爆という途方もない威力に対する、恐れが働いていたと思うのです。これは、一種のギリシア語で言う「タウマゲイン」(発見の驚き)であったと僕は、思っています。そのようにして人類に「押し付けられた」ものである、と思います。
僕は、よく憲法制定権力という法を成立させるための法以前の力について考えます。この憲法、とりわけ9条には、歴史的な駆け引きとはまた別の力が働いた、と思っています。それは、端的に言って「生命原理」だと思っています。「平和的生存権」という前代未聞な権利(裁判所はこれを具体的権利として認めていませんでしたが、最近イラク派兵の訴訟の第5次提訴の判決で、この権利の具体性を認めました)が、そのことを示していると思います。
9条を「生命原理」と捕らえるとき、弁証法とは、違ったアプローチをしなければならない、と思います。このことは、実は、日本の右派からの護憲派に対する「自虐史観」という批判を無効にします。日本の戦後の右派というのは、もともとは左翼からの転向組で、日本では、右も左も弁証法の毒をたっぷり含んでいます。政治的左右の批判的言辞の中で、生命は圧殺されようとしています。
ベルグソンは、彼の持続の概念を構築したとき、そしてそのエラン・ヴィタール(生命の躍動)の学説を作ったとき、彼のイメージを支えたのは、アフリカの人々の生であった、と聞きます。日本国憲法の非戦条項には、僕にはカント的恒久平和よりも、ベルグソン的なエランの働きのほうが、近しいもののように感じます。
その意味で、これは世界で例を見ない母なる法であると思っています。西欧の法の系譜は、やはりトマス・アクイナスの神学に由来する《自然法》に端を発している、と僕は思っています
が、日本国憲法にその物語を適用する必要はないし、また無理なことと思っています。9条から独自の物語を作ってゆけば良いと思います。とはいえ、男権的な一神教である西欧、またイスラームでも、母なるものの系譜は、連綿と続き、西欧ではルネッサンスを生み出し、またイスラームではスーフィズムを生み出しました。またこの母なるものの系譜は、書かれた文字を残さなかった、したがって歴史の中では、征服された民族の智恵に刻印されていたように思います。また西欧でも、ダヴィンチ・コードやブラック・アテナ論、またナグハマディー写本、マリア福音書等々に見ますように、キリスト教の読み直しをされてきており、世界的にもこの戦争を期に、思想の底流では、地殻の変動が起こっているようにも、感じています。
先に「女性原理」といいましたが、これは、男女の関係が動向という社会問題的側面というよりも、多分に神話的なレベルの話で、思考のあり方に関係する問題であると思っていますが、これは、現在の硬直したシステムによる心の物象化を解きほぐすものと思われます。
僕の悪い癖で、話がどんどんそれて言ってしまうので、2項対立に話を戻すと、ぼくは、9条を持つ国家とは、ナショナリストVSレヴォリューショナリストという2項対立を無化させるものだ、と思っています。僕たちは、ぜひとも9条を持つ国家を言うものをイメージする必要があるように、思います。これは、金融グローバリズムと対極にあるもうひとつのグローバリズムである、と思います。そして国家は、国家でありがなら、開かれたものになってゆくと、思います。
実は、もはやこれしか、現代では革命は可能ではない、資本主義の持病を治癒させる方途はないと思っています。それを、一水会の面々も、うっすら気づきはじめているのではないか、と
思いたいですが・・・。
単に法的に「平和的生存権」が認められたから、一件落着となるような問題ではなく、この憲法の隠れた面を活性化させなければ、憲法は生き返ってこない、と思います。
改憲派は、この資本主義の運動の中で、消失したコミュニティの再生に、またもや西欧やイスラームの一神教の代用にアナクロな軍事国家という共同幻想に浸っていますが、こんなものは、対テロ戦争と同じくらい、まったく的はずれな非現実的な妄想だとおもいます。むしろ9条の普遍性こそが、より深化された一神教、主知的な宗教理解が生み出す教条主義を克服する諸宗教のエッセンスを提供しているように思えます。これは、もはや宗教とは呼ばず、また近代主義的な自我でもなく、それでいてあらゆる物が、そこから派生してくる生命の根源にまでに辿って行ける可能性を、9条は秘めているように思えます。
唐突ですが、僕が、天木さんを支持する理由は、天木さんは、無意識のうちに、こうした9条の衝動を深いところから感じ取っているように思ったからです。
何か、哲ちゃんの問いとかみ合っていないかもしれませんが、哲ちゃんの問いに触発されて、だらだら書いてしまいました。ネオコンの思想や天皇制との関連については、次のメールで考
えます。とりあえずここまで。
いろいろ難しい問題を提起してくれて有難う。ひとつずつ考えてみたいのですが、2回に分けてメールします。
まず、哲(小松原)ちゃんの言う、2項対立の思考の問題です。僕も、かねてより、この2項対立の思考が、不毛の根源であると思ってきました。昨日も、新宿で、一水会VS9条ネットの候補者と
の路上討論がありました。でも聴衆は、ほとんど反応なしでした。じゃどんな議論をすれば、聴衆が振り向くか、といえば、長い2項対立の歴史の中で僕は、どんな議論も、現況では、聴衆は聞く耳もたぬであろうとかなり悲観的ですが、悲楽観的に考えて、私見を述べてみます。
先の一水会VS9条ネットの路上討論ですが、ああした枠組みで、考えることは、今ではかなりナンセンスになってしまっていて、一水会の面々も、自分たちの立論が無効であるのをうっすら気づいているようでした。もと赤軍派の議長である塩見氏が司会でやった議論ですが、僕にも多分大方の人にとっても、何か骨董品のようでちっとも面白くなかったと思いますが、確か鈴木邦男氏だったとおもういますが、「昔は、9条が日本をだめにした諸悪の根源だと思っていたが、最近は、それだけではない、と思うようになった」といっているのが印象的でした。そんなこと当たり前なことなのに、僕は思っていますが、9.11以降の状況を見て少しは気づいてきているようです。双方とも、米国政府の隷属には、反対ということで一致していたようでが・・・。
《私としては、このことを考えるにあたって、以下の2項対立に陥ることは「よくない問い方」(ベルクソン)であると思います。即ち、国家はいる(A)のか、いらない(non−A)のか、という2項対立です。》
いみじくも、哲ちゃんは、ベルグソンの名前を出しましたが、僕は、ベルクソンの「生の哲学」には比喩以上の大きなヒントがあるように思えます。ベルグソンは、弁証法というものを嫌っていました。それには、大きな理由があるように思えます。彼は、問いは、うまく立てられたときには、問いの中に答えは出ている、とも言っています。
戦後の日本の政治のシーンは、基本的に国家はいるのか、いらないのか、という2項対立でやってきたように思えます。ひとつには、左翼の、革命の暁には最終的に国家は、廃棄されるべき、というイデオロギーと、もうひとつには、ものすごく古い、アナクロな復古主義の対立です。日本のことですから曖昧にされて語れてきましたが、でもそのおおすじの思考の骨格は、そうだったと思います。
その結果、日本国憲法の前文と9条が、語っている新しい国家像を、誰もイメージすることなく、ここまで来てしまったように思えます。
暴力装置である軍隊を持たない国家というのは、ひとつには外的な政治上の要因と、また内的には観念上の問題から、誰も想像できなかったように思えます。
僕は、日本国憲法とりわけ、9条のことを考えるとき、1947年という第二次大戦と東西冷戦の狭間に成立した事を、とても不思議なことと思っています。他のMLでも、議論したことですが、ぼくが「押し付け」憲法かどうか、といった議論に興味をもてない理由でもあります。押し付けかどうかという歴史上の議論で言えば、僕は「押し付け」である、と思っています。というよりも、歴史上の実証的な押し付けかどうか、という議論をするよりも、もっと感じ取るべき側面が、この憲法にはあるんだ、と言いたいのです。
弁証法は、歴史的生起を、歴史的必然とみなしますが、ぼくは、この憲法の偶然的成立を重要視しているのです。日本軍国主義と原爆の投下という歴史的帰結として、9条が生まれたという事実を否定としようというわけではありません。でもそれは、歴史主義的な論説です。
僕が、「日本の青空」という護憲映画をあまり評価しないのは、その外的な歴史上の経緯のみで、この憲法の根拠を正当ずけようと思っているからです。それには、また反論も可能なよう
に思えます。そしてこの見方に含まれる思考法では、いつも過去の軍国主義による戦争の反省が、含まれます。過去の反省を踏まえて、この憲法ができたというのは、それはそれで、正しいと思っていますが、それだけでは抜け落ちてしまう視点というものがあるように思います。当時の憲法委員の芦田均でさえ、「われらが進んで戦争の否認を提唱するのは、単り過去の依って戦争の忌むべきことを痛感したという理由ばかりへなく、世界を文明の壊滅から救わんとする理想に発足することは言うまでもありませぬ」といっているように、もうひとつの未来的視点を示す必要がある、と思うのです。やはりそこには、戦勝国、敗戦国問わず、原爆という途方もない威力に対する、恐れが働いていたと思うのです。これは、一種のギリシア語で言う「タウマゲイン」(発見の驚き)であったと僕は、思っています。そのようにして人類に「押し付けられた」ものである、と思います。
僕は、よく憲法制定権力という法を成立させるための法以前の力について考えます。この憲法、とりわけ9条には、歴史的な駆け引きとはまた別の力が働いた、と思っています。それは、端的に言って「生命原理」だと思っています。「平和的生存権」という前代未聞な権利(裁判所はこれを具体的権利として認めていませんでしたが、最近イラク派兵の訴訟の第5次提訴の判決で、この権利の具体性を認めました)が、そのことを示していると思います。
9条を「生命原理」と捕らえるとき、弁証法とは、違ったアプローチをしなければならない、と思います。このことは、実は、日本の右派からの護憲派に対する「自虐史観」という批判を無効にします。日本の戦後の右派というのは、もともとは左翼からの転向組で、日本では、右も左も弁証法の毒をたっぷり含んでいます。政治的左右の批判的言辞の中で、生命は圧殺されようとしています。
ベルグソンは、彼の持続の概念を構築したとき、そしてそのエラン・ヴィタール(生命の躍動)の学説を作ったとき、彼のイメージを支えたのは、アフリカの人々の生であった、と聞きます。日本国憲法の非戦条項には、僕にはカント的恒久平和よりも、ベルグソン的なエランの働きのほうが、近しいもののように感じます。
その意味で、これは世界で例を見ない母なる法であると思っています。西欧の法の系譜は、やはりトマス・アクイナスの神学に由来する《自然法》に端を発している、と僕は思っています
が、日本国憲法にその物語を適用する必要はないし、また無理なことと思っています。9条から独自の物語を作ってゆけば良いと思います。とはいえ、男権的な一神教である西欧、またイスラームでも、母なるものの系譜は、連綿と続き、西欧ではルネッサンスを生み出し、またイスラームではスーフィズムを生み出しました。またこの母なるものの系譜は、書かれた文字を残さなかった、したがって歴史の中では、征服された民族の智恵に刻印されていたように思います。また西欧でも、ダヴィンチ・コードやブラック・アテナ論、またナグハマディー写本、マリア福音書等々に見ますように、キリスト教の読み直しをされてきており、世界的にもこの戦争を期に、思想の底流では、地殻の変動が起こっているようにも、感じています。
先に「女性原理」といいましたが、これは、男女の関係が動向という社会問題的側面というよりも、多分に神話的なレベルの話で、思考のあり方に関係する問題であると思っていますが、これは、現在の硬直したシステムによる心の物象化を解きほぐすものと思われます。
僕の悪い癖で、話がどんどんそれて言ってしまうので、2項対立に話を戻すと、ぼくは、9条を持つ国家とは、ナショナリストVSレヴォリューショナリストという2項対立を無化させるものだ、と思っています。僕たちは、ぜひとも9条を持つ国家を言うものをイメージする必要があるように、思います。これは、金融グローバリズムと対極にあるもうひとつのグローバリズムである、と思います。そして国家は、国家でありがなら、開かれたものになってゆくと、思います。
実は、もはやこれしか、現代では革命は可能ではない、資本主義の持病を治癒させる方途はないと思っています。それを、一水会の面々も、うっすら気づきはじめているのではないか、と
思いたいですが・・・。
単に法的に「平和的生存権」が認められたから、一件落着となるような問題ではなく、この憲法の隠れた面を活性化させなければ、憲法は生き返ってこない、と思います。
改憲派は、この資本主義の運動の中で、消失したコミュニティの再生に、またもや西欧やイスラームの一神教の代用にアナクロな軍事国家という共同幻想に浸っていますが、こんなものは、対テロ戦争と同じくらい、まったく的はずれな非現実的な妄想だとおもいます。むしろ9条の普遍性こそが、より深化された一神教、主知的な宗教理解が生み出す教条主義を克服する諸宗教のエッセンスを提供しているように思えます。これは、もはや宗教とは呼ばず、また近代主義的な自我でもなく、それでいてあらゆる物が、そこから派生してくる生命の根源にまでに辿って行ける可能性を、9条は秘めているように思えます。
唐突ですが、僕が、天木さんを支持する理由は、天木さんは、無意識のうちに、こうした9条の衝動を深いところから感じ取っているように思ったからです。
何か、哲ちゃんの問いとかみ合っていないかもしれませんが、哲ちゃんの問いに触発されて、だらだら書いてしまいました。ネオコンの思想や天皇制との関連については、次のメールで考
えます。とりあえずここまで。
by halunet
| 2007-07-26 11:51
| 憲法
























