2007年 07月 26日
9条を守ることの本当の意味 ① 小松原→久松 |
<ML未来ネットでの小松原俊一さんと久松重光さんの往復メールの転載です>
9条の問題について、久松さんと議論を深めたいと思いメールしたところ、久松さんから「この議論は個人的なものに留めるのではなく、みなさんの厳しい批判に晒した方が更に問題を深められるのではないか」という旨の連絡があり、「なるほど」と納得しましたので、ここに転送させて頂きます。
もともと個人的なメールであるため、用語の説明等がなく、分かりにくいと感じられる方がいらっしゃるかも知れません。今後は出来るだけ用語の説明などもしつつ、議論を深めていこうと思っておりますので、今回はご了承下さい。
----- Original Message -----
From: 小松原 俊一
To: hisamatzu-san
Sent: Sunday, July 22, 2007 12:46 PM
Subject: 国家と革命について
久松さん
いずれお立ちよりの際に、ぜひとも議論を深めたいテーマに「国家と革命」の問題があります。これは以前にも議論になったことがありました。重要な問題です。私としては、このことを考えるにあたって、以下の2項対立に陥ることは「よくない問い方」(ベルクソン)であると思います。即ち、国家はいる(A)のか、いらない(non−A)のか、という2項対立です。
これに陥りますと、国家を必要とする者は「=ナショナリスト」であり、それを必要としない者は「=革命家」という二者択一しかなくなってしまいます。更に、このときの「革命家」は単なる国家の否定者でしかありません。
国家は必要かどうかという問題ではなく、既に存在しています。私たちがそれを必要と言おうが、不必要と言おうが、です。ですから、問うべきはその既に存在する国家に対して、どのように向き合うのか、ということであると思います。
この向き合い方に二つのタイプがあると思います。
一つは、国家の構成要素たろうとする向き合い方であり、これに成功するならば、その者は国家の内に存在します。しかし、これに失敗するならば、その者は国家の外に存在することになります。
もう一つは、その構成要素たることから逃れる向き合い方であり、これに成功するならば、その者は国家の外に存在します。しかし、これに失敗するならば、その者は国家の内に存在することになります。
なるほど、前者の向き合い方を「ナショナリスティック」、後者の向き合い方を「革命的」と呼ぶことが出来るかもしれません。しかし、ここで問題になっているのは、実際に国家の構成要素に
なるのかどうか、あるいは、実際に国家から逃れるのかどうかであり、けっして、主観的に国家を必要と思うかどうかではありません。
また、前者が失敗する場合が「非ナショナリスティック」なのであって、革命的であることがそうなのではありません。そして、後者が失敗する場合は「非革命的」であって、「ナショナリティック」ではありません。
更に、この「ナショナリスティック」と「革命的」の間には無数のヴァリエーションがあり、実際の人間の生はどちらか一方にだけあるわけではありません。
そうしますと、所謂「ネオコン」の者たちはどうなるでしょう。彼らは国家の中枢にいます。政府の中にいたり、大企業の中にいたり、有名私立大学の中にいたりします。彼らが主観的にどう思うと、彼らは国家の構成要素です。そして、彼らはその構成要素たることから逃れていませんし、また、逃れようとして失敗しているわけでもありません。彼らの思想がどのようなものであれ、彼らがナショナリスティックであることに変わりはありません。
仮に彼らの思想がトロツキーの「永久革命論」であるとしても、彼らは国家の外で武装闘争するわけでもなく、あくまでも国家の内で、国家の崩壊を試みているだけです。
従いまして、彼らは、言葉の正確な意味で「国家ニヒリスト」であり、革命家でもなく、また革命的でもありません。むしろナショナリストのヴァリエーションの一つです。
日本国憲法第9条のことを考えますと、それは天皇制と不可分の関係にあると思います。そして、それはドイツと鮮やかなコントラストをなしています。
ドイツの場合、ナチスを解体することによって「普通の国家」(即ち、連合国側にとって都合のよい国家)になるわけですから、日本のように徹底的な武装解除は必要ありません。その代わり、ナチスの解体は徹底的にしなければなりません。
一方、日本の場合、天皇制を徹底的に解体できないわけですから、これは「普通の国家」になりません。これが「普通でない」(即ち、いつファシズム化してもおかしくない)以上、これを徹底的に武装解除しない限り、連合国側にとって都合の悪い国家になってしまうかもしれません。
勿論、これは日本の国家や民衆が憲法第9条を選択したことの理由ではありません。そうではなくて、第9条が連合国側に否定されなかったことの理由を述べているに過ぎません。しかし、もしも第9条が連合国側にとって都合の悪いものであったら、それが許されることもなかったでしょう。事実、大日本帝国憲法とあまり変わりのない憲法案は、GHQによって否定されました。
占領の後に日米安保と在日米軍が残り、警察予備隊が組織され、自衛隊になりました。
私が望むのは、憲法第9条を変えず、それを遵守して自衛隊を解体し、日米安保を解消して在日米軍を撤退させ、憲法第1条から第8条までを変えて天皇制を国家から完全に分離することです。
これだけのことをやって初めて、日本国憲法は「奇跡の憲法」になるのであって、現在のように象徴天皇制、日米安保、自衛隊とセットの状態では「普通の憲法」に過ぎません。私には、第9条があるから、派兵された自衛隊が戦闘をしないで済んだということに、それほどの価値があるとは思えません。
第9条の本義は、国家が完全に武装解除するということであり、当然のことながら、自衛隊も在日米軍も違憲です。これを実現できる論理と方法を私たちが持てないのならば、第9条を変えようとする勢力に打ち勝つことは出来ないと思います。
前にも話しましたが、国家と軍隊は本質的には異なると思います。国家に固有の暴力は戦争ではなく警察です。従って、国家のない軍隊や軍隊のない国家というものは十分に可能でありますが、警察のない国家などというものは不可能です。
日本国憲法も警察を否定していないばかりか、それを必要としています。なぜならば、もしも警察という暴力を持たないのならば、憲法以下あらゆる法律を国民に守らせる術がないからです。警察を持たない単なる条文は、道徳ではあり得ても、法律ではあり得ません。
多くの国民を納得させるためには、軍隊のない国家が可能であることを説明するだけでは足りません。自衛隊と在日米軍がなくとも、国民生活の安全を確保できることを説明しなければなりません。このとき、単に「在日米軍がある方が危険だ」という論理だけでは不十分です。「在日米軍がなくても安全だ」と言える論理が必要であり、さらに「自衛隊がなくても安全だ」と言える論理が必要です。そうでなければ、第9条を変えなくてもいいことの説明になりません。
久松さんには、イスラーム思想をヒントにして、これについての説明が出来ないでしょうか。
9条の問題について、久松さんと議論を深めたいと思いメールしたところ、久松さんから「この議論は個人的なものに留めるのではなく、みなさんの厳しい批判に晒した方が更に問題を深められるのではないか」という旨の連絡があり、「なるほど」と納得しましたので、ここに転送させて頂きます。
もともと個人的なメールであるため、用語の説明等がなく、分かりにくいと感じられる方がいらっしゃるかも知れません。今後は出来るだけ用語の説明などもしつつ、議論を深めていこうと思っておりますので、今回はご了承下さい。
----- Original Message -----
From: 小松原 俊一
To: hisamatzu-san
Sent: Sunday, July 22, 2007 12:46 PM
Subject: 国家と革命について
久松さん
いずれお立ちよりの際に、ぜひとも議論を深めたいテーマに「国家と革命」の問題があります。これは以前にも議論になったことがありました。重要な問題です。私としては、このことを考えるにあたって、以下の2項対立に陥ることは「よくない問い方」(ベルクソン)であると思います。即ち、国家はいる(A)のか、いらない(non−A)のか、という2項対立です。
これに陥りますと、国家を必要とする者は「=ナショナリスト」であり、それを必要としない者は「=革命家」という二者択一しかなくなってしまいます。更に、このときの「革命家」は単なる国家の否定者でしかありません。
国家は必要かどうかという問題ではなく、既に存在しています。私たちがそれを必要と言おうが、不必要と言おうが、です。ですから、問うべきはその既に存在する国家に対して、どのように向き合うのか、ということであると思います。
この向き合い方に二つのタイプがあると思います。
一つは、国家の構成要素たろうとする向き合い方であり、これに成功するならば、その者は国家の内に存在します。しかし、これに失敗するならば、その者は国家の外に存在することになります。
もう一つは、その構成要素たることから逃れる向き合い方であり、これに成功するならば、その者は国家の外に存在します。しかし、これに失敗するならば、その者は国家の内に存在することになります。
なるほど、前者の向き合い方を「ナショナリスティック」、後者の向き合い方を「革命的」と呼ぶことが出来るかもしれません。しかし、ここで問題になっているのは、実際に国家の構成要素に
なるのかどうか、あるいは、実際に国家から逃れるのかどうかであり、けっして、主観的に国家を必要と思うかどうかではありません。
また、前者が失敗する場合が「非ナショナリスティック」なのであって、革命的であることがそうなのではありません。そして、後者が失敗する場合は「非革命的」であって、「ナショナリティック」ではありません。
更に、この「ナショナリスティック」と「革命的」の間には無数のヴァリエーションがあり、実際の人間の生はどちらか一方にだけあるわけではありません。
そうしますと、所謂「ネオコン」の者たちはどうなるでしょう。彼らは国家の中枢にいます。政府の中にいたり、大企業の中にいたり、有名私立大学の中にいたりします。彼らが主観的にどう思うと、彼らは国家の構成要素です。そして、彼らはその構成要素たることから逃れていませんし、また、逃れようとして失敗しているわけでもありません。彼らの思想がどのようなものであれ、彼らがナショナリスティックであることに変わりはありません。
仮に彼らの思想がトロツキーの「永久革命論」であるとしても、彼らは国家の外で武装闘争するわけでもなく、あくまでも国家の内で、国家の崩壊を試みているだけです。
従いまして、彼らは、言葉の正確な意味で「国家ニヒリスト」であり、革命家でもなく、また革命的でもありません。むしろナショナリストのヴァリエーションの一つです。
日本国憲法第9条のことを考えますと、それは天皇制と不可分の関係にあると思います。そして、それはドイツと鮮やかなコントラストをなしています。
ドイツの場合、ナチスを解体することによって「普通の国家」(即ち、連合国側にとって都合のよい国家)になるわけですから、日本のように徹底的な武装解除は必要ありません。その代わり、ナチスの解体は徹底的にしなければなりません。
一方、日本の場合、天皇制を徹底的に解体できないわけですから、これは「普通の国家」になりません。これが「普通でない」(即ち、いつファシズム化してもおかしくない)以上、これを徹底的に武装解除しない限り、連合国側にとって都合の悪い国家になってしまうかもしれません。
勿論、これは日本の国家や民衆が憲法第9条を選択したことの理由ではありません。そうではなくて、第9条が連合国側に否定されなかったことの理由を述べているに過ぎません。しかし、もしも第9条が連合国側にとって都合の悪いものであったら、それが許されることもなかったでしょう。事実、大日本帝国憲法とあまり変わりのない憲法案は、GHQによって否定されました。
占領の後に日米安保と在日米軍が残り、警察予備隊が組織され、自衛隊になりました。
私が望むのは、憲法第9条を変えず、それを遵守して自衛隊を解体し、日米安保を解消して在日米軍を撤退させ、憲法第1条から第8条までを変えて天皇制を国家から完全に分離することです。
これだけのことをやって初めて、日本国憲法は「奇跡の憲法」になるのであって、現在のように象徴天皇制、日米安保、自衛隊とセットの状態では「普通の憲法」に過ぎません。私には、第9条があるから、派兵された自衛隊が戦闘をしないで済んだということに、それほどの価値があるとは思えません。
第9条の本義は、国家が完全に武装解除するということであり、当然のことながら、自衛隊も在日米軍も違憲です。これを実現できる論理と方法を私たちが持てないのならば、第9条を変えようとする勢力に打ち勝つことは出来ないと思います。
前にも話しましたが、国家と軍隊は本質的には異なると思います。国家に固有の暴力は戦争ではなく警察です。従って、国家のない軍隊や軍隊のない国家というものは十分に可能でありますが、警察のない国家などというものは不可能です。
日本国憲法も警察を否定していないばかりか、それを必要としています。なぜならば、もしも警察という暴力を持たないのならば、憲法以下あらゆる法律を国民に守らせる術がないからです。警察を持たない単なる条文は、道徳ではあり得ても、法律ではあり得ません。
多くの国民を納得させるためには、軍隊のない国家が可能であることを説明するだけでは足りません。自衛隊と在日米軍がなくとも、国民生活の安全を確保できることを説明しなければなりません。このとき、単に「在日米軍がある方が危険だ」という論理だけでは不十分です。「在日米軍がなくても安全だ」と言える論理が必要であり、さらに「自衛隊がなくても安全だ」と言える論理が必要です。そうでなければ、第9条を変えなくてもいいことの説明になりません。
久松さんには、イスラーム思想をヒントにして、これについての説明が出来ないでしょうか。
by halunet
| 2007-07-26 11:27
| 憲法
























