2006年 11月 21日
オイリュトミーを体験してみませんか? |
久松重光
12月4日から6日まで、僕の古い友人が、この八ヶ岳に来ます。彼は、1977年に僕と一緒にルドルフ・シュタイナーという人の思想を学ぶために、ドイツに渡りました。僕自身はそうそうに落ちこぼれてしまいましたが、浅田さんは、その後も現在に至るまで、約30年、はじめはドイツの片田舎のビンゲンハイムというダウン症児と自閉症をケアする施設(僕も一年余りそこで暮らしたことがありました)で働き、その後は、スイスの病院で、治癒教育の分野でオイリュトミー療法士として、医療者として働いてきました。今回は、2004年から長野で開催されている国際アントロポゾフィー医学ゼミナールの通訳のために帰国されました。彼は、またピアニストでもあり、11月25日には、横浜で医師(内科医)でバリトン歌手でもある揚妻博隆さんと一緒にシューベルトの歌曲を集めた『シューベルティアーデ』というコンサートを開きます。
今回の八ヶ岳での滞在は、当初、旧交を温める目的だったのですが、僕がせっかくだからヨーロッパでの体験などを、ワクワクという地域通貨の会で、話してくれないかと頼んだところ、
自分は、話があまり得意ではないから、オイリュトミーという一種の舞踏なんですけれど、そのワークショップをやったらどうでしょうか、と返答をもらいました。そこで12月5日に小淵沢の生涯学習センターで、夜7:00〜9:00までオイリュトミーのワークショップをやることにしました。
多分、子安美知子さんの通信簿のないシュタイナー学校で知っている方もいるでしょうが、人智学(アントロポゾフィー)自体は、余りに特殊なので、知らない方も多いと思いますので、
オイリュトミーとはどんなものかについては、ワクワクのMLで紹介した僕の文章を転載しておきます。
・・・・・・
オイリュトミーとは、何なのか、どんなことをするのか。
実はぼくも、一年間ぐらいレッスンを受けたことがあるんですが、本当に悪い生徒で、すぐに落ちこぼれてしまいました。ですから紹介は、とても表面的になってしまいますが、間単にど
んなコンセプトなのか紹介します。
一般に、人智学の中では、オイリュトミーを紹介する際、運動芸術と呼ぶことが多いようです。
具体的には、アルファベットの音素を、みな腕の動きに置き変えます。また音階も腕の動きに置き換えます。これは、はじめに覚えさせられるのですが、何か暗記ものみたいで、ちょっと
恣意的に思えて退屈に感じたのですが、最近自分で音素を、フォルムで表現してみようと思ったら、案外オイリュトミーの所作は、合理的にできているなあ、と思いました。まあ、一種の共感覚の訓練のようなものです。
いったん音素や音階をフォルムに置き換えたら、それに足の動きを加えます。それで音楽や詩の朗誦(人智学には、言語造形=シュプラッハ・ゲシュタルトゥングという部門があって、詩の朗誦などと受け持ちます)などをします。最近は日本でも何組かのオイリュトミー舞踏団ができて、宮沢賢治の詩でオイリュトミーを踊っているのを見たことがあります。
シュタイナーは、音楽や詩を踊るための、随分たくさんのオイリュトミー・フォルメンといわれる動きの見取り図を作っていますが、一般には、どう動くかは、個々のオイリュトミストの相違工夫に任されているようです。
このフォルメンは、シュタイナー学校でのフォルメン素描の授業でも作られます。代表的なのは、レムニスカートの図や花びらや葉の出方のような自然界に見られるさまざまなフォルムが
基本になっています。
オイリュトミーは、大体ピアノと一緒に踊ります。ですからオイリュトミストには、ピアノを弾く人が多いと思います。全体の印象では、オイリュトミーは、スーフィー・ダンスやその流れを汲むグルジェフ・ワークのように激しいものではなく、動きも女性的というか流動的で静かな動きが、多いと思います。また日本の土方巽の暗黒舞踏や山海塾の舞踏などに親しんだ人には、物足りなく感じるかもしれません。
また劇場で踊るときには、肩にウェールをつけるのが普通です。シュタイナー自身は、建築のフォルムを考えていたことが、オイリュトミーのフォルムを考えるヒントになったと言っていますが、生というものを《動き》のうちに見てとっていた、いかにもシュタイナーらしい発想とぼくは思っています。
また劇場でのオイリュトミー公演というのは、シュタイナーよりも、その夫人のマリー・シュタイナーに負っていると思います。シュタイナー自身は、オイリュトミーというものをもっと広く考えていたようです。浅田さんが、やっている治癒オイリュトミーが、どんなものであるかは、僕にはよくわかりません。総じて、人智学が提示している諸概念を、どうも普通の慣れ親しんだカテゴリーに入れるのは、うまくいかないように思えます。オイリュトミーが、普通の流布されている意味で芸術なのかどうかも僕には分かりません。人智学にとっては、社会運動も一つの「社会造形」といった芸術だと見なされています。
この「社会造形」という言葉は、ヨーゼフ・ボイスによって大分人口に膾炙されましたが、いずれにせよ、これまでのカテゴリーを壊し、新たな概念を打ちたてようとする、今の言葉で言えば、脱構築しようという衝動が、働いているようです。この衝動をシュタイナーは、「キリスト衝動」といってその衝動に方向性を与えようしています。ですから、オイリュトミーというものも、単に舞踏という形で完結したものでなく、そこで感じ取られた情緒は、新しい共感的人間関係を造形する要素にもにもなるものと思われます。
僕が、オイリュトミーから感じた、感想はこんなものです。後は、直接体験をしてもらって、判断してもらうのが、いいと思います。
12月4日から6日まで、僕の古い友人が、この八ヶ岳に来ます。彼は、1977年に僕と一緒にルドルフ・シュタイナーという人の思想を学ぶために、ドイツに渡りました。僕自身はそうそうに落ちこぼれてしまいましたが、浅田さんは、その後も現在に至るまで、約30年、はじめはドイツの片田舎のビンゲンハイムというダウン症児と自閉症をケアする施設(僕も一年余りそこで暮らしたことがありました)で働き、その後は、スイスの病院で、治癒教育の分野でオイリュトミー療法士として、医療者として働いてきました。今回は、2004年から長野で開催されている国際アントロポゾフィー医学ゼミナールの通訳のために帰国されました。彼は、またピアニストでもあり、11月25日には、横浜で医師(内科医)でバリトン歌手でもある揚妻博隆さんと一緒にシューベルトの歌曲を集めた『シューベルティアーデ』というコンサートを開きます。
今回の八ヶ岳での滞在は、当初、旧交を温める目的だったのですが、僕がせっかくだからヨーロッパでの体験などを、ワクワクという地域通貨の会で、話してくれないかと頼んだところ、
自分は、話があまり得意ではないから、オイリュトミーという一種の舞踏なんですけれど、そのワークショップをやったらどうでしょうか、と返答をもらいました。そこで12月5日に小淵沢の生涯学習センターで、夜7:00〜9:00までオイリュトミーのワークショップをやることにしました。
多分、子安美知子さんの通信簿のないシュタイナー学校で知っている方もいるでしょうが、人智学(アントロポゾフィー)自体は、余りに特殊なので、知らない方も多いと思いますので、
オイリュトミーとはどんなものかについては、ワクワクのMLで紹介した僕の文章を転載しておきます。
・・・・・・
オイリュトミーとは、何なのか、どんなことをするのか。
実はぼくも、一年間ぐらいレッスンを受けたことがあるんですが、本当に悪い生徒で、すぐに落ちこぼれてしまいました。ですから紹介は、とても表面的になってしまいますが、間単にど
んなコンセプトなのか紹介します。
一般に、人智学の中では、オイリュトミーを紹介する際、運動芸術と呼ぶことが多いようです。
具体的には、アルファベットの音素を、みな腕の動きに置き変えます。また音階も腕の動きに置き換えます。これは、はじめに覚えさせられるのですが、何か暗記ものみたいで、ちょっと
恣意的に思えて退屈に感じたのですが、最近自分で音素を、フォルムで表現してみようと思ったら、案外オイリュトミーの所作は、合理的にできているなあ、と思いました。まあ、一種の共感覚の訓練のようなものです。
いったん音素や音階をフォルムに置き換えたら、それに足の動きを加えます。それで音楽や詩の朗誦(人智学には、言語造形=シュプラッハ・ゲシュタルトゥングという部門があって、詩の朗誦などと受け持ちます)などをします。最近は日本でも何組かのオイリュトミー舞踏団ができて、宮沢賢治の詩でオイリュトミーを踊っているのを見たことがあります。
シュタイナーは、音楽や詩を踊るための、随分たくさんのオイリュトミー・フォルメンといわれる動きの見取り図を作っていますが、一般には、どう動くかは、個々のオイリュトミストの相違工夫に任されているようです。
このフォルメンは、シュタイナー学校でのフォルメン素描の授業でも作られます。代表的なのは、レムニスカートの図や花びらや葉の出方のような自然界に見られるさまざまなフォルムが
基本になっています。
オイリュトミーは、大体ピアノと一緒に踊ります。ですからオイリュトミストには、ピアノを弾く人が多いと思います。全体の印象では、オイリュトミーは、スーフィー・ダンスやその流れを汲むグルジェフ・ワークのように激しいものではなく、動きも女性的というか流動的で静かな動きが、多いと思います。また日本の土方巽の暗黒舞踏や山海塾の舞踏などに親しんだ人には、物足りなく感じるかもしれません。
また劇場で踊るときには、肩にウェールをつけるのが普通です。シュタイナー自身は、建築のフォルムを考えていたことが、オイリュトミーのフォルムを考えるヒントになったと言っていますが、生というものを《動き》のうちに見てとっていた、いかにもシュタイナーらしい発想とぼくは思っています。
また劇場でのオイリュトミー公演というのは、シュタイナーよりも、その夫人のマリー・シュタイナーに負っていると思います。シュタイナー自身は、オイリュトミーというものをもっと広く考えていたようです。浅田さんが、やっている治癒オイリュトミーが、どんなものであるかは、僕にはよくわかりません。総じて、人智学が提示している諸概念を、どうも普通の慣れ親しんだカテゴリーに入れるのは、うまくいかないように思えます。オイリュトミーが、普通の流布されている意味で芸術なのかどうかも僕には分かりません。人智学にとっては、社会運動も一つの「社会造形」といった芸術だと見なされています。
この「社会造形」という言葉は、ヨーゼフ・ボイスによって大分人口に膾炙されましたが、いずれにせよ、これまでのカテゴリーを壊し、新たな概念を打ちたてようとする、今の言葉で言えば、脱構築しようという衝動が、働いているようです。この衝動をシュタイナーは、「キリスト衝動」といってその衝動に方向性を与えようしています。ですから、オイリュトミーというものも、単に舞踏という形で完結したものでなく、そこで感じ取られた情緒は、新しい共感的人間関係を造形する要素にもにもなるものと思われます。
僕が、オイリュトミーから感じた、感想はこんなものです。後は、直接体験をしてもらって、判断してもらうのが、いいと思います。
by halunet
| 2006-11-21 01:45