2012年 09月 01日
沖縄<高江>からの現地最新レポート/二重の疎外という現実(その1) |
沖縄 ・高江からの報告
2012.8 椎ノ木 武志
1960年、南ベトナム解放民族戦線(通称ベトコン)による武装蜂起で始まったベトナム戦争。当初アメリカは少数の軍事顧問団の派遣にとどめていたが、南ベトナム政府軍の相次ぐ敗退に危機意識を高め、ついに本格的介入に踏み切った。さらに1964年のトンキン湾事件(北ベトナムが米艦船を攻撃とアメリカが発表。しかし後年それがアメリカのでっち上げであることが明らかになった)を口実にした米軍の北ベトナムに対する爆撃(北爆)が開始された。こうして北ベトナムを含むアメリカとの全面戦争に発展した。
南ベトナムはその多くが深いジャングルで覆われていた。南ベトナム解放民族戦線は、そのジャングルを巧みに利用しトンネルを縦横に掘り、ジャングルを縦横無尽動き回り、また、いたるところに落とし穴を作り、米軍を苦しめた。(対抗策として、あの悪名高き枯葉剤を撒いた。)
当時沖縄はアメリカの施政権下にあった。ヤンバルの森にある米軍北部訓練場では、木を切りそこにベトナムの村を再現し、高江の人々を半ば強制的に動員しベトコンを演じさせ、それを標的に軍事訓練をしたという。
今、高江では160人の人々が暮らす集落を取り囲むように、オスプレイの離発着ポートを作っている。(直接工事を強行しているのは日本政府。)ベトナム戦争から40年たった今、今度は現に生活している集落そのものを標的とした軍事訓練をしようとしているのだ。それも危険なオスプレイを使って。(オスプレイの危険性や沖縄配備の軍事的問題性については、未来ネットの拙文「オスプレイの沖縄配備の意味するもの」を参照してくださいhttp://mirainet.exblog.jp/18617605/)

ヤンバルの森はとても美しい。ほとんど手つかずの自然には、ヤンバル固有の種を始め多くの生き物が生息している。イタジイというブナ科に属する木が山一面を覆っている。一見ブロッコリーに似ているのでブロッコリーの森などとも呼ばれる。
8月X日 午前9時半ごろ座り込みテントのあるYゲートに着いた。既に数十人の人が集まっていた。「○○さんですよね」と笑顔で迎えてくれたが、雰囲気が少しおかしい。聞けば早朝沖縄防衛局の職員と作業員が来て作業員と若干の資材、機材をヘリパッド建設現場に送り込んだという。
Yゲートは防衛局が建設用パイプなどを使って封鎖しており、その奥50m位のところに米軍が管理するゲートがある。住民の会などは防衛局の遮蔽物のさらに手前にスローガンなどを掲げた横断幕等で建設抗議の意思表示をしている。

防衛局職員にガードされた作業員8名はゲートのわきのガードレールを超えて林の中へはいって行ったという。しばらくして刈り払い機のエンジン音が聞こえてくる。やがて座り込みテント小屋は落ち着きを取り戻し地元の人はそれぞれ仕事などに散っていく。残った当番と支援者は、新聞を読んだり、読書をしたり、お喋りしたりおもいおもいに時間を過ごす。直接行動に参加しないまでもテントを訪れる人は結構多い。ここは新聞だけでなく郵便やメール便も届く。昼近くになると差し入れの弁当、おにぎり、そしてハンバーガー。長く居ると太りそう。

もちろん住民の会はここでの座り込みだけを行っているわけではない。防衛省や沖縄防衛局への話し合いを求めての行動、国会議員への陳情、東京、京都などの支援団体の集会などへの参加など高江の現状を知ってもらうための様々な活動と座り込みを繋いで、少しでも支援と連帯の輪を広げようとしているのだ。相手は余りにも大きく、それに比べて高江は余りにも小さい。


午後4時、作業員達が基地内からゲートを開けて作業を終えて出てくる。皆一様に手ぬぐいなどで顔を隠している。もちろん警察に対してではない。私達に人物を特定されるのを恐れているのだ。防衛局から受注した企業の下請けか孫請けのこの労働者達も同じ沖縄の人間だ。胸中は複雑なのだ。だから彼らには優しい口調で「今造っているのが何か知ってる?」「オスプレイが頭の上を飛ぶんだよ」と話しかける。彼らは沈黙か「知らない、知らない」と、早口で反応する。あえて考えないという風情だ。防衛局の車を待つひと時こんな光景もある。

抗議は迎えに来た防衛局職員に集中する。車を取り囲み工事中止を要求する。「明日はくるな」「沖縄防衛局長は地元と話し合いをするといった!約束を守れ」彼らはだいたい沈黙で答える。中には窓を開けて話そうとする若い職員もいる。ボスらしいのが「しゃべるな」と叫ぶ。やがて名護警察が来る。パチパチ写真を取り出す。こちらはころ合いを見て解放する。今日はこれで終わりだ。跡かたづけをしてゲート前を去る。地区唯一の売店でビールやおかずを買い込み支援者用の宿泊施設へ。間もなくゲート前から緊急連絡、防衛局の車が来たという。再び車に乗って駆け付ける。忘れ物をしたと言ってすぐに立ち去る。怪しい。
この時期汗まみれなので、とにかく順番に大急ぎでシャワーを浴びてビールを開ける。今日は、どなたかがとても辛いカレーを作っていた。飲みながら、自己紹介。若いカップルに、休暇を取っての会社員、会社を辞めて来たという若い女性。大学院生に、自転車で全国を回っている青年、高校生もいた。那覇からも学生や女性が来ていた。皆自分のいろんな体験を話す。今日一日同じ場にいた連帯感があって、どんな話でもすごく楽しい。
翌朝は、緊急連絡で7時前にはYゲートに駆けつける。緊張の一瞬だ。防衛局の車を先頭にかなりのスピードで接近してくる。手を広げて留める。車が止まった瞬間バラバラと作業員や防衛局職員が飛び出してくる。職員が私達の前に手を広げて立ちふさがる。そのスキに作業員はガードレールを超えて林の中へ。何しろ入る所は広いので止めるのは難しい。この日は獣よけのネットをさらに長く張るなど作業に追われた。
後の反省会「とにかく諦めてはダメ」「たとえ入られても毎日続けることで相手に嫌気を起こさせることが大事。」「暴力は使わないけど体は使う。ただ見ているだけではダメ。」「明日は一人でも二人でも留めよう。」
台風の接近を思わせる激しい雨が断続的に降る。今日は京都から教授や学生数十人がきた。夕方防衛局への抗議行動を遠巻きに見ていた。今日は車を囲んで少し長めの抗議 。

名護警察到着。でもただ見ているだけで手を出さない。やがてぼちぼちやめるように話しかけてくる。タイミングを見て今日の抗議行動はおえる。地元の人は言う「警察とは余り対立しない方がいい。彼らも私達の気持ちは分かっている」
(2へつづく)
2012.8 椎ノ木 武志
1960年、南ベトナム解放民族戦線(通称ベトコン)による武装蜂起で始まったベトナム戦争。当初アメリカは少数の軍事顧問団の派遣にとどめていたが、南ベトナム政府軍の相次ぐ敗退に危機意識を高め、ついに本格的介入に踏み切った。さらに1964年のトンキン湾事件(北ベトナムが米艦船を攻撃とアメリカが発表。しかし後年それがアメリカのでっち上げであることが明らかになった)を口実にした米軍の北ベトナムに対する爆撃(北爆)が開始された。こうして北ベトナムを含むアメリカとの全面戦争に発展した。
南ベトナムはその多くが深いジャングルで覆われていた。南ベトナム解放民族戦線は、そのジャングルを巧みに利用しトンネルを縦横に掘り、ジャングルを縦横無尽動き回り、また、いたるところに落とし穴を作り、米軍を苦しめた。(対抗策として、あの悪名高き枯葉剤を撒いた。)
当時沖縄はアメリカの施政権下にあった。ヤンバルの森にある米軍北部訓練場では、木を切りそこにベトナムの村を再現し、高江の人々を半ば強制的に動員しベトコンを演じさせ、それを標的に軍事訓練をしたという。
今、高江では160人の人々が暮らす集落を取り囲むように、オスプレイの離発着ポートを作っている。(直接工事を強行しているのは日本政府。)ベトナム戦争から40年たった今、今度は現に生活している集落そのものを標的とした軍事訓練をしようとしているのだ。それも危険なオスプレイを使って。(オスプレイの危険性や沖縄配備の軍事的問題性については、未来ネットの拙文「オスプレイの沖縄配備の意味するもの」を参照してくださいhttp://mirainet.exblog.jp/18617605/)

ヤンバルの森はとても美しい。ほとんど手つかずの自然には、ヤンバル固有の種を始め多くの生き物が生息している。イタジイというブナ科に属する木が山一面を覆っている。一見ブロッコリーに似ているのでブロッコリーの森などとも呼ばれる。
8月X日 午前9時半ごろ座り込みテントのあるYゲートに着いた。既に数十人の人が集まっていた。「○○さんですよね」と笑顔で迎えてくれたが、雰囲気が少しおかしい。聞けば早朝沖縄防衛局の職員と作業員が来て作業員と若干の資材、機材をヘリパッド建設現場に送り込んだという。
Yゲートは防衛局が建設用パイプなどを使って封鎖しており、その奥50m位のところに米軍が管理するゲートがある。住民の会などは防衛局の遮蔽物のさらに手前にスローガンなどを掲げた横断幕等で建設抗議の意思表示をしている。

防衛局職員にガードされた作業員8名はゲートのわきのガードレールを超えて林の中へはいって行ったという。しばらくして刈り払い機のエンジン音が聞こえてくる。やがて座り込みテント小屋は落ち着きを取り戻し地元の人はそれぞれ仕事などに散っていく。残った当番と支援者は、新聞を読んだり、読書をしたり、お喋りしたりおもいおもいに時間を過ごす。直接行動に参加しないまでもテントを訪れる人は結構多い。ここは新聞だけでなく郵便やメール便も届く。昼近くになると差し入れの弁当、おにぎり、そしてハンバーガー。長く居ると太りそう。

もちろん住民の会はここでの座り込みだけを行っているわけではない。防衛省や沖縄防衛局への話し合いを求めての行動、国会議員への陳情、東京、京都などの支援団体の集会などへの参加など高江の現状を知ってもらうための様々な活動と座り込みを繋いで、少しでも支援と連帯の輪を広げようとしているのだ。相手は余りにも大きく、それに比べて高江は余りにも小さい。


午後4時、作業員達が基地内からゲートを開けて作業を終えて出てくる。皆一様に手ぬぐいなどで顔を隠している。もちろん警察に対してではない。私達に人物を特定されるのを恐れているのだ。防衛局から受注した企業の下請けか孫請けのこの労働者達も同じ沖縄の人間だ。胸中は複雑なのだ。だから彼らには優しい口調で「今造っているのが何か知ってる?」「オスプレイが頭の上を飛ぶんだよ」と話しかける。彼らは沈黙か「知らない、知らない」と、早口で反応する。あえて考えないという風情だ。防衛局の車を待つひと時こんな光景もある。

抗議は迎えに来た防衛局職員に集中する。車を取り囲み工事中止を要求する。「明日はくるな」「沖縄防衛局長は地元と話し合いをするといった!約束を守れ」彼らはだいたい沈黙で答える。中には窓を開けて話そうとする若い職員もいる。ボスらしいのが「しゃべるな」と叫ぶ。やがて名護警察が来る。パチパチ写真を取り出す。こちらはころ合いを見て解放する。今日はこれで終わりだ。跡かたづけをしてゲート前を去る。地区唯一の売店でビールやおかずを買い込み支援者用の宿泊施設へ。間もなくゲート前から緊急連絡、防衛局の車が来たという。再び車に乗って駆け付ける。忘れ物をしたと言ってすぐに立ち去る。怪しい。
この時期汗まみれなので、とにかく順番に大急ぎでシャワーを浴びてビールを開ける。今日は、どなたかがとても辛いカレーを作っていた。飲みながら、自己紹介。若いカップルに、休暇を取っての会社員、会社を辞めて来たという若い女性。大学院生に、自転車で全国を回っている青年、高校生もいた。那覇からも学生や女性が来ていた。皆自分のいろんな体験を話す。今日一日同じ場にいた連帯感があって、どんな話でもすごく楽しい。
翌朝は、緊急連絡で7時前にはYゲートに駆けつける。緊張の一瞬だ。防衛局の車を先頭にかなりのスピードで接近してくる。手を広げて留める。車が止まった瞬間バラバラと作業員や防衛局職員が飛び出してくる。職員が私達の前に手を広げて立ちふさがる。そのスキに作業員はガードレールを超えて林の中へ。何しろ入る所は広いので止めるのは難しい。この日は獣よけのネットをさらに長く張るなど作業に追われた。
後の反省会「とにかく諦めてはダメ」「たとえ入られても毎日続けることで相手に嫌気を起こさせることが大事。」「暴力は使わないけど体は使う。ただ見ているだけではダメ。」「明日は一人でも二人でも留めよう。」
台風の接近を思わせる激しい雨が断続的に降る。今日は京都から教授や学生数十人がきた。夕方防衛局への抗議行動を遠巻きに見ていた。今日は車を囲んで少し長めの抗議 。


名護警察到着。でもただ見ているだけで手を出さない。やがてぼちぼちやめるように話しかけてくる。タイミングを見て今日の抗議行動はおえる。地元の人は言う「警察とは余り対立しない方がいい。彼らも私達の気持ちは分かっている」
(2へつづく)
by halunet
| 2012-09-01 11:26
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