2012年 07月 06日
原発の安全性が確保されたかどうかという議論が新たな安全神話を生む/6.17福井市集会報告 |
大飯原発再稼働
命をなんと軽く扱うモノたちよ
2012,7、6
椎ノ木 武志
あまりにも軽く、あまりにも簡単に、今なお苦しみの渦中にある福島の現実を一顧だにせず、6月16日、野田内閣は大飯原発の再稼働を決めた。その「あまりにも」にある種のむなしさを感じ、行こうか迷ったが、たとえほとんど意味を持たなくても、意思表示だけはしなくてはと思い朝早く福井に向け出発した。当日は低い雲に覆われたあいにくの天気で、道中時折激しく雨が降った。
「6.17大飯原発再稼働反対全国集会」は福井県庁前で行われた。県庁横の公園にはすでに多くの人々が旗やのぼりを持って集まっていた。間もなく集会が始まった。どうやら主催は地元の若い人達のグループのようだ。まっ赤なワンピースの女性も司会の一人。主催者あいさつに続き明通寺住職中嶌哲演さん(この方は小浜市のお坊さんで、ずいぶん前から原発の危険性を訴えてこられた、地元では有名な方だそうです。)の発言、さらにルポライターであり一千万人署名の発起人でもある鎌田慧氏があいさつに立った。氏は野田首相の「責任は私が」に対し「福島原発事故で誰が責任をとったか」「首相にどんな責任が取れるのか。」と怒りをあらわにした。最後に[しかし我々はまだまだ弱い。さらに頑張って再稼働を阻止しなければならない]と締めくくった。
続いて京大原子炉実験所熊取6人衆の一人小林圭二氏(小出さんと違ってすでに退官しておられる。)が発言に立ち、その後参加団体個人の1分間トークに移った。
すでに多くの人が会場を埋めその数2000は超えている感じだ。地元の多くの参加者を始め、東京からは経産省前テント村とたんぽぽ舎がバスや新幹線を乗り継いだ600人の参加。静岡からは浜岡原発の廃炉を目指すグループが。京都、大阪、和歌山、兵庫、岡山、福岡、そして遠く沖縄からも全国各地から集まった。80人を超える人達が次々発言に立った。乳飲み子を抱いた若いお母さん、医療関係の女性の集団、政党関係者、労組代表、それぞれの地域で再稼働に反対する活動をしている市民のグループなどなど。皆一様に安全性を無視した余りにも拙速な稼働再開に怒りの声をあげた。決してあきらめないと訴えた。発言者は皆明るかった。まだまだこれからやるのだという意気込みを感じた。
福井県庁は、回りを掘でぐるりと囲まれた福井城跡に、市街を見下ろすかのように立っている。参加者は堀を1周する形で再稼働反対の声をあげた。
東京と違って、出動してきたのは 交通警察官だけで、しかも少ない。写真にあるように片側1車線を歩いているのだけれど、皆適当にはみ出すと、警察官が汗だくになりながら、あっちへ行ったりこっちへ来たり。信号規制をする余裕が無いらしく赤のまま、皆ずんずん歩いていく。対向車線も車は通らず、カメラマンがうろうろ。ただ日曜日なので西川知事は多分県庁にはいなかっただろう。
帰りに大飯原発に寄ろうと思ったりしたが、敦賀からでも結構な距離があるので諦めた。おおい町は福井県と言っても若狭湾の西部に位置し、福井市までは直線で約70キロ、京都市までは約60キロ、もちろん琵琶湖もすっぽり入る。福井市までよりも近いのだ。それが地元でないというのもおかしな話だ。
3.11以降定期点検や、トラブルで停止した原発は、そう簡単には再稼動できなくなった。このことに危機意識を持った原発推進勢力は、経産省を軸に再稼働への動きを強めてきた。
たとえば、11年6月の海江田経産相(当時)による玄海原発再稼働の要請。(しかしこれはやらせメールの暴露などでとん挫した。)これに対して菅前首相は(彼は東工大物理学科の出であり、市川房江の選挙応援など、いわゆる市民運動を足がかりに政界入りを果たした。経済的バックを持たず、科学至上主義的なところがあって、原発安全神話に乗っかった原発推進派であったが、3.11の現実に動揺し、浜岡原発の停止要請などにみられるようにその立場を変更していったと思われる。)突然ストレステスト(耐性評価)を持ちだし対抗した。これに対して推進勢力は政官財あげて菅追い落としに動いた。マスコミ、特にワイドショーでの薄っぺらなコメンテーターの評論で菅はダメだという世論を醸成しながら。
したがって菅の後、原発推進勢力の意を受けて登場した野田は、当然にも原発再稼働をその任とした(消費増税については触れない)のである。「長期的には脱原発、短期的には必要」などとあたかも基本的には路線転換をしていないような雰囲気を醸し出しながら。
以降のながれを新聞記事で追ってみる。まず12月17日政府は福島原発終息宣言を出した。よくいわれているように、炉の内部の状態は全く判らず、4号機の使用済み核燃料プールは極めて危険な状態が続いている。そして何よりいわゆる政府いうところの安全基準年間1ミリシーベルトを上回るところに多数の人々が暮らしている現実があるにも関わらず。
しかし政府にとってそれはどうでもいいことなのだ。福島原発は後処理の段階に入ったと内外に示すこと。原発再稼働に踏み出すという意思を示すことこそがその狙いだった。
年が明けると、2月1日、IAEAのストレステストに対する「お墨付き」を受けて細野原発相は「国際組織から客観的なアドバイスをいただいた」と評価、地元福井県は、2月9日「安全評価地元慎重」と引いて見せ、2月23日「福井県、原発道路整備を要求」と取引を持ちかける。政府は3月14日「原発再稼働政治判断へ」「安全委、大飯原発の安全確認終了」、3月24日「政権、再稼働手続きへ」「来月から地元説得」 。
そんな中こんな見出しも「福井県原子力委員5人に電力側から1400万円寄付、」4月に入ると3日に政府は保安院に「再稼働への暫定基準」作りを指示。5日には「基準案を了承」10日には「大飯おおむね適合」とした。
再稼働の基準作りから適合まで何と僅か1週間。いくら再稼働あり気の動きとはいえ、余りにも露骨であった。残るは政治的判断のみとなった。しかし当然にも世論は再稼働反対へ動いた。それに引きずられるように周辺(いわゆる地元ではない)自治体の長たちも反発を強めた。
そんな中5月5日北海道泊原発3号機が定期検査のため停止し日本の全ての原発が停止した。原発全停止から少し間を置いて政府の地方への攻勢が始まった。それに対して福井県知事は、(電源3法による交付金や、原発関連の企業受注を念頭に)夏場だけでなくしっかりした再開のための早期の決断を政府に迫った。他方周辺自治体は、世論の安全性への不安を背景に、抵抗したが、夏の電力不足を理由とした政、官、財一体となった圧力に屈した形で再稼働を認めた。
そして6月16日、西川福井県知事の同意を受け、野田首相が再開を正式決定した。
橋下大阪市長の顧問の古賀という元官僚が関電は、「大飯再稼働と夏の電力不足は関係ないと認識している。」と言っていることを暴露した、(本当は資産価値を守るためという)。橋本市長は「電力不足」は口実であることは知っていた。にもかかわらず最終段階で、彼は、あたかも夏の電力不足が再稼働の要因のように装いながら、「夏のピーク時を乗り切る限定的なものにすべき」「まあ、うわべばかり言っていてもしょうがないんでね。事実上の容認ですよ。」と語り彼の「反対」がいかに薄っぺらで、単なるポーズにすぎなかったかを自己暴露した。
また同じく容認した滋賀県の嘉田知事は、後に「停電の為に病院などで死者がでてもいいのか、滋賀から企業が出ていくと脅された」と語っている。この夏果たして電力は不足するのかということについてマスコミはいろいろ騒いでいる。それが関電の単なる宣伝なのかそうでないのか、私は本当のところはわからない。ただ確実に言えることはたとえ電気が足りても足りなくてもそれが再稼働の理由にはならないということだ。(このことについては後で触れる。)
今なお福島は、福島市や郡山市など都市部においても、依然高い放射線量を示しており、ある報告によれば、福島市と郡山市の間にある二本松市の河川横の公園で、7,75μs/hという信じられないような数値を示したという。
また週刊金曜日によると、「県民健康管理調査」検討委員会の山下俊一座長は、18歳以下の県民の甲状腺検査の結果、35.3%の13,460人に5ミリ以下の結節や20ミリ以下ののう胞が見つかったにも関わらず、2年半後の検査まで保護者の追加検査の要求に応じないように「甲状腺学会員」の医師に指示したという。
これに抗議する市民団体に政府は「国として答える立場にない」「専門的なところは県の検討委員会で進めている」として事実上容認した。国や県は福島の人々の救済に全力を挙げるどころかむしろ悲惨な状況に落とし込めているのだ。
このようなモノたちに「死者がでてもいいのか」などという資格はない。また少し前の報道では北九州市で広域処理のガレキの燃焼試験をしたがその輸送コストが何と1400万円だという。試験だけで。広域処理の本当の目的が透けて見えるというものだ。
本当にこの夏電力が足りないならこうしたお金を病院の自家発電装置に回すなどのいろんな方策をとってから言うならまだしも、ただ節電というのは、少なくともそれが口実に過ぎないことは明らかだ。また、おおい町長が取締役になっている企業が関電から多額の受注をしていると言った薄汚い話も伝わってきている。こんなレベルの理由で再稼働の判断をしているモノたちがいるとは。
よく「地元は原発で成り立っている。」「多くの人が原発関連で働いている」「だから必要」というような報道が流される。しかし次のことは隠されている。原発を廃炉にするにはそこに廃炉産業が成り立つということ。もっともそこにも日立、東芝といった原子力企業がまた登場するという腹立たしさがあるが。
原発の再稼働には基本的に二つの問題がある。
その一つ目は再稼働をめぐる議論が安全性を確保できているのかということを軸になされていることだ。政府は「福島のような地震や津波が来ても、事故を防止できる対策と態勢は整った」とし、それを受けて福井県、おおい町が安全性は確保されたとして容認し、さらに周辺自治体が容認した。しかし、「防波堤の完成は2年後」「フイルター付きベント設備(圧力容器内の気圧を下げる際に放射性物質を外に出さないためのもの)は4年後完成」「重要免震棟は4年後の完成」等重要な事柄はすべて先延ばしにされている。確かにこのことの拙速性、危険性をまずもって追及していかねばならない。しかしながら、それらが実現すればいいのか、安全性が確保されるのかといった議論こそが、新たな安全神話を生む土壌ではないのか。福島事故が明らかにしたのは安全神話の崩壊であり、原発についての安全という概念そのものの否定なのだ。
二つ目は、原発の稼働自身の持つ危険性だ。原発は、予期せぬ出来事、事故が危険なだけではない。通常運転そのものが、人間や環境に、悪影響を与えている。原子力発電所では、完全に閉じ込められない微量の放射性物質が環境に放出していると言われている。また、海へ海水温より7~8度高い微量の放射性物質を含んだ冷却水が毎秒数100立米放出されている。青森県の六ヶ所村の再処理工場(まだ本格的稼働はしていない)では原子力発電所が出す1年分の放射性物質を1日で空気中や海に放出すると言われている。そればかりではない。原発作業員は特に定期点検や燃料棒の出し入れの際、(数値は明らかでないが)かなりの被曝を強いられている。さらに核のゴミの最終的処理(半減期が数万年以上という気の遠くなる期間安全に管理する必要がある。)は実質不可能だ。
余りにも杜撰な、再稼働有りきの安全基準や安全審査故にどうしても私達の怒りがそこに集中しがちだ。しかし原子力発電はその存在そのもの、その本質において、人間と、そして全ての自然と相いれないもので有ること。このことを忘れてはならない。
たとえそれが「経済の発展」の妨げになろうとも。(同時に今こそ現在社会における「経済的豊かさ」とは何なのか問い直すべき時だと思う)
<追記>6月29日首相官邸前抗議集会
報道によればこの首相官邸の住人は「再稼働反対」のシュプレヒコールに「大きな音だね」と言ったそうだ。彼にとっては、広場を埋め尽くした人々と声が物としか見えないのだ。本来人間にとって手段でしかない物が目的になっているパラドックス。それは彼自身が人間性を喪失していることの証なのだ。哀れとしか言いようがない。
6月29日午後8時私は首相官邸前にいた。歩道はぎっしり埋めつくされていた。それでも首相官邸目指して進んでくる人の波は途切れることはなかった。やがて風船が膨らむように人々は車道に出始め、またたく間に車道も埋めつくされた。「再稼働反対」の叫びが終わりなく続く。交差点を遮断した警察車両を背に、首相官邸前交差点は人で埋め尽くされて正に広場と化した。
「再稼働反対」を掲げて官邸前へ怒涛のごとく押し寄せる人々の思いは、二度と再び福島の事故を起こしたくない、起こさせないという強い願いである。この願いを意思表示し、アピールするために来たのだ。 ノーモア福島
命をなんと軽く扱うモノたちよ
2012,7、6
椎ノ木 武志
あまりにも軽く、あまりにも簡単に、今なお苦しみの渦中にある福島の現実を一顧だにせず、6月16日、野田内閣は大飯原発の再稼働を決めた。その「あまりにも」にある種のむなしさを感じ、行こうか迷ったが、たとえほとんど意味を持たなくても、意思表示だけはしなくてはと思い朝早く福井に向け出発した。当日は低い雲に覆われたあいにくの天気で、道中時折激しく雨が降った。
「6.17大飯原発再稼働反対全国集会」は福井県庁前で行われた。県庁横の公園にはすでに多くの人々が旗やのぼりを持って集まっていた。間もなく集会が始まった。どうやら主催は地元の若い人達のグループのようだ。まっ赤なワンピースの女性も司会の一人。主催者あいさつに続き明通寺住職中嶌哲演さん(この方は小浜市のお坊さんで、ずいぶん前から原発の危険性を訴えてこられた、地元では有名な方だそうです。)の発言、さらにルポライターであり一千万人署名の発起人でもある鎌田慧氏があいさつに立った。氏は野田首相の「責任は私が」に対し「福島原発事故で誰が責任をとったか」「首相にどんな責任が取れるのか。」と怒りをあらわにした。最後に[しかし我々はまだまだ弱い。さらに頑張って再稼働を阻止しなければならない]と締めくくった。
続いて京大原子炉実験所熊取6人衆の一人小林圭二氏(小出さんと違ってすでに退官しておられる。)が発言に立ち、その後参加団体個人の1分間トークに移った。
すでに多くの人が会場を埋めその数2000は超えている感じだ。地元の多くの参加者を始め、東京からは経産省前テント村とたんぽぽ舎がバスや新幹線を乗り継いだ600人の参加。静岡からは浜岡原発の廃炉を目指すグループが。京都、大阪、和歌山、兵庫、岡山、福岡、そして遠く沖縄からも全国各地から集まった。80人を超える人達が次々発言に立った。乳飲み子を抱いた若いお母さん、医療関係の女性の集団、政党関係者、労組代表、それぞれの地域で再稼働に反対する活動をしている市民のグループなどなど。皆一様に安全性を無視した余りにも拙速な稼働再開に怒りの声をあげた。決してあきらめないと訴えた。発言者は皆明るかった。まだまだこれからやるのだという意気込みを感じた。
福井県庁は、回りを掘でぐるりと囲まれた福井城跡に、市街を見下ろすかのように立っている。参加者は堀を1周する形で再稼働反対の声をあげた。
東京と違って、出動してきたのは 交通警察官だけで、しかも少ない。写真にあるように片側1車線を歩いているのだけれど、皆適当にはみ出すと、警察官が汗だくになりながら、あっちへ行ったりこっちへ来たり。信号規制をする余裕が無いらしく赤のまま、皆ずんずん歩いていく。対向車線も車は通らず、カメラマンがうろうろ。ただ日曜日なので西川知事は多分県庁にはいなかっただろう。
帰りに大飯原発に寄ろうと思ったりしたが、敦賀からでも結構な距離があるので諦めた。おおい町は福井県と言っても若狭湾の西部に位置し、福井市までは直線で約70キロ、京都市までは約60キロ、もちろん琵琶湖もすっぽり入る。福井市までよりも近いのだ。それが地元でないというのもおかしな話だ。
3.11以降定期点検や、トラブルで停止した原発は、そう簡単には再稼動できなくなった。このことに危機意識を持った原発推進勢力は、経産省を軸に再稼働への動きを強めてきた。
たとえば、11年6月の海江田経産相(当時)による玄海原発再稼働の要請。(しかしこれはやらせメールの暴露などでとん挫した。)これに対して菅前首相は(彼は東工大物理学科の出であり、市川房江の選挙応援など、いわゆる市民運動を足がかりに政界入りを果たした。経済的バックを持たず、科学至上主義的なところがあって、原発安全神話に乗っかった原発推進派であったが、3.11の現実に動揺し、浜岡原発の停止要請などにみられるようにその立場を変更していったと思われる。)突然ストレステスト(耐性評価)を持ちだし対抗した。これに対して推進勢力は政官財あげて菅追い落としに動いた。マスコミ、特にワイドショーでの薄っぺらなコメンテーターの評論で菅はダメだという世論を醸成しながら。
したがって菅の後、原発推進勢力の意を受けて登場した野田は、当然にも原発再稼働をその任とした(消費増税については触れない)のである。「長期的には脱原発、短期的には必要」などとあたかも基本的には路線転換をしていないような雰囲気を醸し出しながら。
以降のながれを新聞記事で追ってみる。まず12月17日政府は福島原発終息宣言を出した。よくいわれているように、炉の内部の状態は全く判らず、4号機の使用済み核燃料プールは極めて危険な状態が続いている。そして何よりいわゆる政府いうところの安全基準年間1ミリシーベルトを上回るところに多数の人々が暮らしている現実があるにも関わらず。
しかし政府にとってそれはどうでもいいことなのだ。福島原発は後処理の段階に入ったと内外に示すこと。原発再稼働に踏み出すという意思を示すことこそがその狙いだった。
年が明けると、2月1日、IAEAのストレステストに対する「お墨付き」を受けて細野原発相は「国際組織から客観的なアドバイスをいただいた」と評価、地元福井県は、2月9日「安全評価地元慎重」と引いて見せ、2月23日「福井県、原発道路整備を要求」と取引を持ちかける。政府は3月14日「原発再稼働政治判断へ」「安全委、大飯原発の安全確認終了」、3月24日「政権、再稼働手続きへ」「来月から地元説得」 。
そんな中こんな見出しも「福井県原子力委員5人に電力側から1400万円寄付、」4月に入ると3日に政府は保安院に「再稼働への暫定基準」作りを指示。5日には「基準案を了承」10日には「大飯おおむね適合」とした。
再稼働の基準作りから適合まで何と僅か1週間。いくら再稼働あり気の動きとはいえ、余りにも露骨であった。残るは政治的判断のみとなった。しかし当然にも世論は再稼働反対へ動いた。それに引きずられるように周辺(いわゆる地元ではない)自治体の長たちも反発を強めた。
そんな中5月5日北海道泊原発3号機が定期検査のため停止し日本の全ての原発が停止した。原発全停止から少し間を置いて政府の地方への攻勢が始まった。それに対して福井県知事は、(電源3法による交付金や、原発関連の企業受注を念頭に)夏場だけでなくしっかりした再開のための早期の決断を政府に迫った。他方周辺自治体は、世論の安全性への不安を背景に、抵抗したが、夏の電力不足を理由とした政、官、財一体となった圧力に屈した形で再稼働を認めた。
そして6月16日、西川福井県知事の同意を受け、野田首相が再開を正式決定した。
橋下大阪市長の顧問の古賀という元官僚が関電は、「大飯再稼働と夏の電力不足は関係ないと認識している。」と言っていることを暴露した、(本当は資産価値を守るためという)。橋本市長は「電力不足」は口実であることは知っていた。にもかかわらず最終段階で、彼は、あたかも夏の電力不足が再稼働の要因のように装いながら、「夏のピーク時を乗り切る限定的なものにすべき」「まあ、うわべばかり言っていてもしょうがないんでね。事実上の容認ですよ。」と語り彼の「反対」がいかに薄っぺらで、単なるポーズにすぎなかったかを自己暴露した。
また同じく容認した滋賀県の嘉田知事は、後に「停電の為に病院などで死者がでてもいいのか、滋賀から企業が出ていくと脅された」と語っている。この夏果たして電力は不足するのかということについてマスコミはいろいろ騒いでいる。それが関電の単なる宣伝なのかそうでないのか、私は本当のところはわからない。ただ確実に言えることはたとえ電気が足りても足りなくてもそれが再稼働の理由にはならないということだ。(このことについては後で触れる。)
今なお福島は、福島市や郡山市など都市部においても、依然高い放射線量を示しており、ある報告によれば、福島市と郡山市の間にある二本松市の河川横の公園で、7,75μs/hという信じられないような数値を示したという。
また週刊金曜日によると、「県民健康管理調査」検討委員会の山下俊一座長は、18歳以下の県民の甲状腺検査の結果、35.3%の13,460人に5ミリ以下の結節や20ミリ以下ののう胞が見つかったにも関わらず、2年半後の検査まで保護者の追加検査の要求に応じないように「甲状腺学会員」の医師に指示したという。
これに抗議する市民団体に政府は「国として答える立場にない」「専門的なところは県の検討委員会で進めている」として事実上容認した。国や県は福島の人々の救済に全力を挙げるどころかむしろ悲惨な状況に落とし込めているのだ。
このようなモノたちに「死者がでてもいいのか」などという資格はない。また少し前の報道では北九州市で広域処理のガレキの燃焼試験をしたがその輸送コストが何と1400万円だという。試験だけで。広域処理の本当の目的が透けて見えるというものだ。
本当にこの夏電力が足りないならこうしたお金を病院の自家発電装置に回すなどのいろんな方策をとってから言うならまだしも、ただ節電というのは、少なくともそれが口実に過ぎないことは明らかだ。また、おおい町長が取締役になっている企業が関電から多額の受注をしていると言った薄汚い話も伝わってきている。こんなレベルの理由で再稼働の判断をしているモノたちがいるとは。
よく「地元は原発で成り立っている。」「多くの人が原発関連で働いている」「だから必要」というような報道が流される。しかし次のことは隠されている。原発を廃炉にするにはそこに廃炉産業が成り立つということ。もっともそこにも日立、東芝といった原子力企業がまた登場するという腹立たしさがあるが。
原発の再稼働には基本的に二つの問題がある。
その一つ目は再稼働をめぐる議論が安全性を確保できているのかということを軸になされていることだ。政府は「福島のような地震や津波が来ても、事故を防止できる対策と態勢は整った」とし、それを受けて福井県、おおい町が安全性は確保されたとして容認し、さらに周辺自治体が容認した。しかし、「防波堤の完成は2年後」「フイルター付きベント設備(圧力容器内の気圧を下げる際に放射性物質を外に出さないためのもの)は4年後完成」「重要免震棟は4年後の完成」等重要な事柄はすべて先延ばしにされている。確かにこのことの拙速性、危険性をまずもって追及していかねばならない。しかしながら、それらが実現すればいいのか、安全性が確保されるのかといった議論こそが、新たな安全神話を生む土壌ではないのか。福島事故が明らかにしたのは安全神話の崩壊であり、原発についての安全という概念そのものの否定なのだ。
二つ目は、原発の稼働自身の持つ危険性だ。原発は、予期せぬ出来事、事故が危険なだけではない。通常運転そのものが、人間や環境に、悪影響を与えている。原子力発電所では、完全に閉じ込められない微量の放射性物質が環境に放出していると言われている。また、海へ海水温より7~8度高い微量の放射性物質を含んだ冷却水が毎秒数100立米放出されている。青森県の六ヶ所村の再処理工場(まだ本格的稼働はしていない)では原子力発電所が出す1年分の放射性物質を1日で空気中や海に放出すると言われている。そればかりではない。原発作業員は特に定期点検や燃料棒の出し入れの際、(数値は明らかでないが)かなりの被曝を強いられている。さらに核のゴミの最終的処理(半減期が数万年以上という気の遠くなる期間安全に管理する必要がある。)は実質不可能だ。
余りにも杜撰な、再稼働有りきの安全基準や安全審査故にどうしても私達の怒りがそこに集中しがちだ。しかし原子力発電はその存在そのもの、その本質において、人間と、そして全ての自然と相いれないもので有ること。このことを忘れてはならない。
たとえそれが「経済の発展」の妨げになろうとも。(同時に今こそ現在社会における「経済的豊かさ」とは何なのか問い直すべき時だと思う)
<追記>6月29日首相官邸前抗議集会
報道によればこの首相官邸の住人は「再稼働反対」のシュプレヒコールに「大きな音だね」と言ったそうだ。彼にとっては、広場を埋め尽くした人々と声が物としか見えないのだ。本来人間にとって手段でしかない物が目的になっているパラドックス。それは彼自身が人間性を喪失していることの証なのだ。哀れとしか言いようがない。
6月29日午後8時私は首相官邸前にいた。歩道はぎっしり埋めつくされていた。それでも首相官邸目指して進んでくる人の波は途切れることはなかった。やがて風船が膨らむように人々は車道に出始め、またたく間に車道も埋めつくされた。「再稼働反対」の叫びが終わりなく続く。交差点を遮断した警察車両を背に、首相官邸前交差点は人で埋め尽くされて正に広場と化した。
「再稼働反対」を掲げて官邸前へ怒涛のごとく押し寄せる人々の思いは、二度と再び福島の事故を起こしたくない、起こさせないという強い願いである。この願いを意思表示し、アピールするために来たのだ。 ノーモア福島
by halunet
| 2012-07-06 12:18
| 原発と核