2012年 05月 12日
沖縄ー抵抗の原点/伊江島から辺野古そして高江の旅 |
沖縄―抵抗の原点
椎ノ木 武志
沖縄本島北部、西にコブのように突き出た本部半島。本部市からフェリーで約30分のところに伊江島はある。周囲20数キロ、あちこち寄り道しながらバイクで回ったが2時間もかからない。西部約25パーセント位は米軍基地だ。楕円形をした島の中央東よりのところに、とんがり帽子のように突き出たこの島唯一の山、標高172mの城山(タッチュー)がある。


フェリーから見た城山とその頂上から西方向を見た。遠く少しかすんで見えるのが米軍基地であり、戦後農民の土地をめぐる抵抗の舞台となった真謝(まじゃ)地区だ。
1945年4月16日伊江島に米軍が上陸してきた。そして同月26日に終わった。人口7500人の伊江島で 民間人1500人、軍人2000人、米兵800人が死亡した。阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんはその著書「米軍と農民」でこう記している。「真謝の農民は、沖縄全体もそうでありますが、戦争のことは語ろうとしません。思い出すだけで気が狂うほどの苦しみでありました。」そしてさらに二つ目の戦争と言われる、米軍による土地取り上げが始まる。米軍の圧倒的な力を前にして、真謝の農民はしかし決して絶望しなかった。その抵抗の足跡を、その中心にいた阿波根さんの「米軍と農民」から辿ってみる。
伊江島村民は捕虜となり、他の島や本島を転々とさせられ、1947年にようやく故郷に戻され、肥沃な土地で農作業に汗を流していた。ひと時の平和であった。1954年6月米軍は真謝地区4戸を立ち退かせた。その時米軍は「農耕は自由にさせる、損害を受けた時は補償する、生活には不自由させない、補償金をもらえばかえって生活は楽になる」と言った。しかし僅かの移転料が支払らわれると、たちまち広い農地にブルドーザーが入った。この時農民たちはまだ協力的だったという。同年9月さらに150万坪の土地と152戸の立ち退きを通告してきた。それに対して、米軍との交渉、琉球政府や立法院への陳情を繰り返した。その状況の一部を以下抜粋する。「農民は土地と命は一つです。死ぬとも立ち退きませんから」「もしここから移動でもさせられることがあれば、どうせ死ぬのだから、もう家の下で子供と一緒に死ぬ覚悟をしております」と訴え、「地主(農民)たちは男も女も一様に、お願いします、お願いしますと哀願するように哀れな声で訴え重い足取りで各自の家に戻った」とある。どうしても土地を手放せないという切羽詰まった気持ちが伝わってくる。
この交渉や陳情を経て、その体験に基づいて自ら守るものとして、「陳情規定」を作った。
以下全文を掲載する。
陳情規定
・反米的にならないこと。
・怒ったり、悪口を言わないこと。
・必要なこと以外はみだりに米軍にしゃべらないこと。正しい行動をとること。ウソ偽りは絶対語らないこと。
・会談の時は必ず座ること。
・集合し米軍に対応するときは、モッコ、鎌、棒切れその他を手に持たないこと。
・耳より上に手をあげないこと。(米軍はわれわれが手をあげると暴力をふるったと言って写真をとる。)
・大声を出さず、静かに話す。
・人道、道徳・宗教の精神と態度で折衝し、布令・布告など誤った法規にとらわれず、道理を通して訴えること。
・軍を恐れてはならない。
・人間性においては、生産者である我々農民の方が軍人に優っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること。
・このお願いを通すための規定を最後まで守ること。
この陳情規定を誰が作ったかについて阿波根さんは「よくわかりません。私が言いだしたとしても、よくもあの時ああいうものができたといまでも不思議に思っています。」と述べている。さらに陳情はたたかいではないという意見に対しこう述べている。「必ずしも優れたたたかいとは思わない。だが、支援団体も、新聞記者も、見る人も聞く人もいない時、この離れ小島の伊江島で殺されたらお終いだ。これ以外に方法はない。」そしてこれを「無抵抗の抵抗」と言っている。
極めて厳しい状況下で作られたことがよくわかる。それにもかかわらず、相手に対して、そのやり口を見抜いたうえで、誠実、かつ冷静に接すること。さらに単に合法的でなくとも、誤った法律に対しとらわれないと断じ、道理を主張していること。そして何よりも私が共感したのは、人間性という点で、破壊者である軍人に対して生産者である農民の優位性を宣言していることだ。圧倒的な力関係の差、きちっと軍服を着た米軍とぼろ服をまとった農民にも関わらず、決して卑屈にならず、生産者と破壊者の関係において人間性という本質的なレベルにおいて生産者の優位性を見抜いていたのだ。これは誰に教わったということでなく、大地の恵みに感謝し、生かされ、何より大地を大切にしてきた農民の直感だと思う。
さらに何度かの米軍、政府(もちろん米軍のいいなりで何の役にも立たない)との話し合いで、彼らは追い詰められていく。そしてついに1955年3月11日完全武装の300人の米兵が真謝に乗り込んできた。そして14日の朝のことを阿波根さんはこう書いている。「私たちがわが子のようにはぐくみ育ててきた芋、落花生、砂糖キビ、そして小高い防風林の松が、次々と米兵のブルドーザーによって、ひきならされていくばかりでなく、営々として築いた一本の柱にも私達の愛情がこもっている家屋敷が荒れ狂う爪にひきむしられていったのです。」
追い立てられた農民たちは米軍が張ったテント幕舎に入れられた。そこは、昼は蒸し暑く夜はランプのみ、ハブを気にし、雨が降ると、中まで水が入り飲み水も思うに成らず、病人が続出し、命の危機に直面した。農民たちは、基地内での耕作をおこなおうとしたが、米兵に見つかり追い出されたり逮捕された。また琉球政府に座り込んだが どうにもならず、万策尽きた彼らは、ついに沖縄本島縦断の乞食行進に打って出た。だがそれはお恵み頂戴ではなかった。「堂々とした乞食」と阿波根さんがいうその内容とは。「乞食(乞食托鉢)、これも自らの恥であり、全住民の恥だ。しかし自らの恥より、我々の家を焼き土地を取り上げ、生活補償をなさず、失業させ、飢えさせ、ついに死ぬに死なれず乞食にまでおとしいれた国や非人間的行為こそ大きい恥じだという結論に至りました。」つまり乞食が恥かしいのでなく、それを強いた行為こそ恥じだと高らかに宣言しているのだ。さらに以下のように続いている。
・募金は同情を訴えるだけでは、目的は果たせない。
・募金に応ずる人が奮起せざるを得ないように、働きかける。進んでやる気を起こさせる。
等々その目的を明確にしている。
乞食行進を続けながら、真謝では張られた金網の撤去や米軍の立ち入り禁止の看板に対して米軍立ち入り禁止の看板を立てて対抗するなど抵抗を続けたが、逮捕、投獄が続いた。そんな中「軍会談の心構え」という記述があるので抜粋する。
・皆さんの心構えと注意 その時みなさんは卑屈感を持たず、同じ人間という考えのもとで会談に臨むこと。・・・・米軍は会談中皆さんが強くなり、米軍が負けそうになったことに気がつくと、議題を巧みにそらして、雑談のなかから言質を取ろうとするから決してそれに乗せられぬよう注意しなければなりません。
・短気は禁物である。 短気は理性を失い、言質を摂られ、会談無用の土地取り上げの口実を米軍に与える危険性があります。さらに短気の中から粘り強さが失われ、米軍から長続きしないことを見抜かれ、場合によっては村民の結束にヒビを入れることになりますから、気をつけなければなりません。
まさに今日そのままあてはまる注意事項だ。
その後も米代を払うため不発弾を解体していた二人の農民の爆死、草刈りをしていた農民の米軍による射殺など苦難が続いた。しかし「乞食行進」などを通して広く伊江島の現実が知られるようになったことや、1961年伊江島土地を守る会の結成の頃から、力関係に少し変化が出てきた。米軍も農民たちの存在を無視できなくなってきたのだ。
1964年のいわゆるトンキン湾事件(今日ではこれはアメリカが本格的にベトナムに軍事介入するための挑発であったことが明らかになっている。)そして翌年アメリカは北爆を開始した。伊江島はベトナムと直結したのだ。弾頭をつけていない模擬核爆弾が演習のため降りそそいだという。またこんな話も。ベトナム帰りの米兵が殻薬きょうを売りに来て仲良くなり、その米兵の言うには、「ベトナム兵を殺したくないが、殺さないとこちらが殺されてしまう。ベトコンは知恵がある。どうにもならない」と言ってその米兵はビールを飲みながら涙を流した。その米兵は3人の子供の父親だったが多分戦死した。ベトナム戦争に対して土地を守る会は、伊江島でのいろんな軍事演習、特にミサイルの持ち込みを工夫を凝らした抵抗で阻止した。また佐藤内閣の戦争への加担に抗議しさらに、米兵に対し、戦場に行くなと強く呼びかけたのだ。土地を守る闘いは、戦争反対の闘いと一体化してきた。
そんな中1967年真謝地区に団結道場の建設が始まった。その目的、意義について、「受身からの脱皮」 今までの闘争は、土地を接収するから、または基地をつくるから、それにそなえて反対するといった「やるからやるんだ」といったような、即ち受身の態度で臨んできたが、今度の小屋建設はそうではなくて私たちの力で攻撃を仕掛けていく闘争方法である。」(一部抜粋)と述べている。その後米軍の様々な嫌がらせを受けたが、正に建設そのものが闘いとしてなされ1970年完成した。本土復帰の直前だった。

今も残る団結道場 コンクリート作りで中は30畳位の板の間になっている。
「米軍と農民」はここで終わる。阿波根昌鴻さん 2002年3月永眠 101歳
米軍占領時代沖縄本島では、沖縄人民党や教職員を中心とした労働者による様々な闘いが繰り広げられていた。しかし伊江島での闘いはほとんど孤立した小さな島で、その地の農民のみの抵抗であった。武器を持たない農民たちが権力にへりくだることなく、粘り強く抵抗を続けたこと。無抵抗の抵抗と称する、創意工夫を凝らし闘いを展開したこと。そこには生死の境にいながらも何か余裕すら感じること。単に損得に走るのでなく、凛として人間的正当性を堅持していたこと。そこから、米軍に対し精神的優位性を持ちえたこと。さらに米軍を単に敵として見るのでなくその向こうにある戦争を見据えていたこと。それゆえ米兵に対して同じ人間として接したこと。こうした伊江島の土地をめぐる抵抗の、不屈の魂は今日の基地をめぐる辺野古、高江のそれに受け継がれている。
翌日辺野古を訪れた。海は静かで美しかった。海外からの教会関係のグループや、弁護士の一団が訪れていた。はや、日常になった風景に見える。しかしヒタヒタと忍び寄る影に皆危機意識を募らせているように思えた。ここで座り込みを始めて2900日になる。


2004年、埋めたて予定の海のボウリング調査を始めた沖縄防衛施設局に対し、地元、周辺、全沖縄、さらに全国から集まった人々による阻止の取り組みが始まった。騒音による、暮らしの破壊、墜落の危険性、そして、ジュゴンのくるこのサンゴ礁の海を壊してはならない。さらに戦争に繋がる、軍事基地を造らせてはならない。その行動は陸と海で、創意工夫を凝らして、死に物狂いで、果敢に繰り広げられた。しかし決して暴力を使わなかった。防衛施設局は目的を達成できずに引き揚げたのだ。それ以後辺野古の海を前にした座り込みは続いている。
東村は、本島北部の人口約1800の小さな村だ。さらにその北の端ヤンバルの森に囲まれたところが高江地区だ。自然豊かな小さな集落だ。それにあこがれて移住してくる人もいるという。この集落を囲むようにヘリパットが造られようとしている。しかも未亡人製造機と言われるオスプレイ(少し前もモロッコで訓練中に墜落して乗組員が死亡している。)の離発着訓練のために。この自然豊かな土地と、自らの静かな生活を実現するために人々が抵抗を始めたのは当然のことだ。しかしそれだけではない。高江はこう語っている。「子供たちは私達から何を受け継ぐのでしょうか?出来れば戦争や汚染された大地や、空気や水などでなく、自然のめぐみいっぱいの平和な日々であってほしいと願わずにはいられません。」
辺野古にしても、高江にしても直接的には自らに生活のために立ち上がったのだとしても、それに留まることなく、人間としての、全自然の中での人間のあるべき姿をはっきりとその根底においているのだ。それ故多くの人々の心をとらえ、共感をよびおこしているのだ。無抵抗の抵抗と称した伊江島の人々の抵抗は、脈々と今日に受け継がれている。
本土並みを旗印に、日本の施政権下に入って40年の沖縄。北朝鮮の馬鹿げたパフォーマンスを巧みに利用した自衛隊による訓練、日米共同軍事演習、中国との領有権争いを激化させることを目論んだ尖閣諸島の買い取り騒動等々。戦争は二度としないという憲法9条をないがしろにした動きのただ中に沖縄はある。戦争は人間ばかりでなく総ての自然を破壊する以外何物ももたらさない、絶対的悪である。自然には領土も国境もない。そこに生息する生き物にも。そして本来的には自然の一部として暮らす人間にも。
国道331を高江に向かって走っていると木の陰からチラッと田んぼがほんの一瞬見えた。沖縄で初めて見た。それだけでなく何か判らないがふっと感じたものがあった。この時期ヤンバルの森はノグチゲラの営巣期とあって沖縄防衛局も動きを止めていて比較的平穏だった。それでも演習地内に不自然に草や木の生えない所が見つかって、ベトナム戦争の頃米軍が何かを蒔いているのを見たという証言もあって、問題になっていた。

高江は小さな集落だ。もちろん旅館や民宿はない。その晩は、座り込みの応援に来た人用の簡易の宿泊所に留めてもらった。その夜たまたま保育園の卒園の御祝いの一品持ち寄りの集まりがそこであって私も参加させてもらった。最後は男たちの酒の場になった。そこで昼間見た田んぼの話をすると、そこは自分の田んぼだと言う人がいた。聞いてみると関東の方から沖縄に来て有機無農薬農業をやっているという。それだけでなく私達もかつて、稲についてお世話になった稲葉光圀さんの民間稲作研究所で研修したという。それで分かった。あのちらっと見た時感じたのは、普通の田んぼとの植え方の違いだった。あくる日帰りにその田んぼに立ち寄った。若い研修生が2人せっせと補植していた。小さな貝が沢山いて根をかじるという。

すべて手植えの有機無農薬故の今は寂しい田んぼ。彼らと別れてハンドルを握った時なぜか、胸が弾んだ。
2012.5.10
椎ノ木 武志
沖縄本島北部、西にコブのように突き出た本部半島。本部市からフェリーで約30分のところに伊江島はある。周囲20数キロ、あちこち寄り道しながらバイクで回ったが2時間もかからない。西部約25パーセント位は米軍基地だ。楕円形をした島の中央東よりのところに、とんがり帽子のように突き出たこの島唯一の山、標高172mの城山(タッチュー)がある。


フェリーから見た城山とその頂上から西方向を見た。遠く少しかすんで見えるのが米軍基地であり、戦後農民の土地をめぐる抵抗の舞台となった真謝(まじゃ)地区だ。
1945年4月16日伊江島に米軍が上陸してきた。そして同月26日に終わった。人口7500人の伊江島で 民間人1500人、軍人2000人、米兵800人が死亡した。阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんはその著書「米軍と農民」でこう記している。「真謝の農民は、沖縄全体もそうでありますが、戦争のことは語ろうとしません。思い出すだけで気が狂うほどの苦しみでありました。」そしてさらに二つ目の戦争と言われる、米軍による土地取り上げが始まる。米軍の圧倒的な力を前にして、真謝の農民はしかし決して絶望しなかった。その抵抗の足跡を、その中心にいた阿波根さんの「米軍と農民」から辿ってみる。
伊江島村民は捕虜となり、他の島や本島を転々とさせられ、1947年にようやく故郷に戻され、肥沃な土地で農作業に汗を流していた。ひと時の平和であった。1954年6月米軍は真謝地区4戸を立ち退かせた。その時米軍は「農耕は自由にさせる、損害を受けた時は補償する、生活には不自由させない、補償金をもらえばかえって生活は楽になる」と言った。しかし僅かの移転料が支払らわれると、たちまち広い農地にブルドーザーが入った。この時農民たちはまだ協力的だったという。同年9月さらに150万坪の土地と152戸の立ち退きを通告してきた。それに対して、米軍との交渉、琉球政府や立法院への陳情を繰り返した。その状況の一部を以下抜粋する。「農民は土地と命は一つです。死ぬとも立ち退きませんから」「もしここから移動でもさせられることがあれば、どうせ死ぬのだから、もう家の下で子供と一緒に死ぬ覚悟をしております」と訴え、「地主(農民)たちは男も女も一様に、お願いします、お願いしますと哀願するように哀れな声で訴え重い足取りで各自の家に戻った」とある。どうしても土地を手放せないという切羽詰まった気持ちが伝わってくる。
この交渉や陳情を経て、その体験に基づいて自ら守るものとして、「陳情規定」を作った。
以下全文を掲載する。
陳情規定
・反米的にならないこと。
・怒ったり、悪口を言わないこと。
・必要なこと以外はみだりに米軍にしゃべらないこと。正しい行動をとること。ウソ偽りは絶対語らないこと。
・会談の時は必ず座ること。
・集合し米軍に対応するときは、モッコ、鎌、棒切れその他を手に持たないこと。
・耳より上に手をあげないこと。(米軍はわれわれが手をあげると暴力をふるったと言って写真をとる。)
・大声を出さず、静かに話す。
・人道、道徳・宗教の精神と態度で折衝し、布令・布告など誤った法規にとらわれず、道理を通して訴えること。
・軍を恐れてはならない。
・人間性においては、生産者である我々農民の方が軍人に優っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること。
・このお願いを通すための規定を最後まで守ること。
この陳情規定を誰が作ったかについて阿波根さんは「よくわかりません。私が言いだしたとしても、よくもあの時ああいうものができたといまでも不思議に思っています。」と述べている。さらに陳情はたたかいではないという意見に対しこう述べている。「必ずしも優れたたたかいとは思わない。だが、支援団体も、新聞記者も、見る人も聞く人もいない時、この離れ小島の伊江島で殺されたらお終いだ。これ以外に方法はない。」そしてこれを「無抵抗の抵抗」と言っている。
極めて厳しい状況下で作られたことがよくわかる。それにもかかわらず、相手に対して、そのやり口を見抜いたうえで、誠実、かつ冷静に接すること。さらに単に合法的でなくとも、誤った法律に対しとらわれないと断じ、道理を主張していること。そして何よりも私が共感したのは、人間性という点で、破壊者である軍人に対して生産者である農民の優位性を宣言していることだ。圧倒的な力関係の差、きちっと軍服を着た米軍とぼろ服をまとった農民にも関わらず、決して卑屈にならず、生産者と破壊者の関係において人間性という本質的なレベルにおいて生産者の優位性を見抜いていたのだ。これは誰に教わったということでなく、大地の恵みに感謝し、生かされ、何より大地を大切にしてきた農民の直感だと思う。
さらに何度かの米軍、政府(もちろん米軍のいいなりで何の役にも立たない)との話し合いで、彼らは追い詰められていく。そしてついに1955年3月11日完全武装の300人の米兵が真謝に乗り込んできた。そして14日の朝のことを阿波根さんはこう書いている。「私たちがわが子のようにはぐくみ育ててきた芋、落花生、砂糖キビ、そして小高い防風林の松が、次々と米兵のブルドーザーによって、ひきならされていくばかりでなく、営々として築いた一本の柱にも私達の愛情がこもっている家屋敷が荒れ狂う爪にひきむしられていったのです。」
追い立てられた農民たちは米軍が張ったテント幕舎に入れられた。そこは、昼は蒸し暑く夜はランプのみ、ハブを気にし、雨が降ると、中まで水が入り飲み水も思うに成らず、病人が続出し、命の危機に直面した。農民たちは、基地内での耕作をおこなおうとしたが、米兵に見つかり追い出されたり逮捕された。また琉球政府に座り込んだが どうにもならず、万策尽きた彼らは、ついに沖縄本島縦断の乞食行進に打って出た。だがそれはお恵み頂戴ではなかった。「堂々とした乞食」と阿波根さんがいうその内容とは。「乞食(乞食托鉢)、これも自らの恥であり、全住民の恥だ。しかし自らの恥より、我々の家を焼き土地を取り上げ、生活補償をなさず、失業させ、飢えさせ、ついに死ぬに死なれず乞食にまでおとしいれた国や非人間的行為こそ大きい恥じだという結論に至りました。」つまり乞食が恥かしいのでなく、それを強いた行為こそ恥じだと高らかに宣言しているのだ。さらに以下のように続いている。
・募金は同情を訴えるだけでは、目的は果たせない。
・募金に応ずる人が奮起せざるを得ないように、働きかける。進んでやる気を起こさせる。
等々その目的を明確にしている。
乞食行進を続けながら、真謝では張られた金網の撤去や米軍の立ち入り禁止の看板に対して米軍立ち入り禁止の看板を立てて対抗するなど抵抗を続けたが、逮捕、投獄が続いた。そんな中「軍会談の心構え」という記述があるので抜粋する。
・皆さんの心構えと注意 その時みなさんは卑屈感を持たず、同じ人間という考えのもとで会談に臨むこと。・・・・米軍は会談中皆さんが強くなり、米軍が負けそうになったことに気がつくと、議題を巧みにそらして、雑談のなかから言質を取ろうとするから決してそれに乗せられぬよう注意しなければなりません。
・短気は禁物である。 短気は理性を失い、言質を摂られ、会談無用の土地取り上げの口実を米軍に与える危険性があります。さらに短気の中から粘り強さが失われ、米軍から長続きしないことを見抜かれ、場合によっては村民の結束にヒビを入れることになりますから、気をつけなければなりません。
まさに今日そのままあてはまる注意事項だ。
その後も米代を払うため不発弾を解体していた二人の農民の爆死、草刈りをしていた農民の米軍による射殺など苦難が続いた。しかし「乞食行進」などを通して広く伊江島の現実が知られるようになったことや、1961年伊江島土地を守る会の結成の頃から、力関係に少し変化が出てきた。米軍も農民たちの存在を無視できなくなってきたのだ。
1964年のいわゆるトンキン湾事件(今日ではこれはアメリカが本格的にベトナムに軍事介入するための挑発であったことが明らかになっている。)そして翌年アメリカは北爆を開始した。伊江島はベトナムと直結したのだ。弾頭をつけていない模擬核爆弾が演習のため降りそそいだという。またこんな話も。ベトナム帰りの米兵が殻薬きょうを売りに来て仲良くなり、その米兵の言うには、「ベトナム兵を殺したくないが、殺さないとこちらが殺されてしまう。ベトコンは知恵がある。どうにもならない」と言ってその米兵はビールを飲みながら涙を流した。その米兵は3人の子供の父親だったが多分戦死した。ベトナム戦争に対して土地を守る会は、伊江島でのいろんな軍事演習、特にミサイルの持ち込みを工夫を凝らした抵抗で阻止した。また佐藤内閣の戦争への加担に抗議しさらに、米兵に対し、戦場に行くなと強く呼びかけたのだ。土地を守る闘いは、戦争反対の闘いと一体化してきた。
そんな中1967年真謝地区に団結道場の建設が始まった。その目的、意義について、「受身からの脱皮」 今までの闘争は、土地を接収するから、または基地をつくるから、それにそなえて反対するといった「やるからやるんだ」といったような、即ち受身の態度で臨んできたが、今度の小屋建設はそうではなくて私たちの力で攻撃を仕掛けていく闘争方法である。」(一部抜粋)と述べている。その後米軍の様々な嫌がらせを受けたが、正に建設そのものが闘いとしてなされ1970年完成した。本土復帰の直前だった。

今も残る団結道場 コンクリート作りで中は30畳位の板の間になっている。
「米軍と農民」はここで終わる。阿波根昌鴻さん 2002年3月永眠 101歳
米軍占領時代沖縄本島では、沖縄人民党や教職員を中心とした労働者による様々な闘いが繰り広げられていた。しかし伊江島での闘いはほとんど孤立した小さな島で、その地の農民のみの抵抗であった。武器を持たない農民たちが権力にへりくだることなく、粘り強く抵抗を続けたこと。無抵抗の抵抗と称する、創意工夫を凝らし闘いを展開したこと。そこには生死の境にいながらも何か余裕すら感じること。単に損得に走るのでなく、凛として人間的正当性を堅持していたこと。そこから、米軍に対し精神的優位性を持ちえたこと。さらに米軍を単に敵として見るのでなくその向こうにある戦争を見据えていたこと。それゆえ米兵に対して同じ人間として接したこと。こうした伊江島の土地をめぐる抵抗の、不屈の魂は今日の基地をめぐる辺野古、高江のそれに受け継がれている。
翌日辺野古を訪れた。海は静かで美しかった。海外からの教会関係のグループや、弁護士の一団が訪れていた。はや、日常になった風景に見える。しかしヒタヒタと忍び寄る影に皆危機意識を募らせているように思えた。ここで座り込みを始めて2900日になる。


2004年、埋めたて予定の海のボウリング調査を始めた沖縄防衛施設局に対し、地元、周辺、全沖縄、さらに全国から集まった人々による阻止の取り組みが始まった。騒音による、暮らしの破壊、墜落の危険性、そして、ジュゴンのくるこのサンゴ礁の海を壊してはならない。さらに戦争に繋がる、軍事基地を造らせてはならない。その行動は陸と海で、創意工夫を凝らして、死に物狂いで、果敢に繰り広げられた。しかし決して暴力を使わなかった。防衛施設局は目的を達成できずに引き揚げたのだ。それ以後辺野古の海を前にした座り込みは続いている。
東村は、本島北部の人口約1800の小さな村だ。さらにその北の端ヤンバルの森に囲まれたところが高江地区だ。自然豊かな小さな集落だ。それにあこがれて移住してくる人もいるという。この集落を囲むようにヘリパットが造られようとしている。しかも未亡人製造機と言われるオスプレイ(少し前もモロッコで訓練中に墜落して乗組員が死亡している。)の離発着訓練のために。この自然豊かな土地と、自らの静かな生活を実現するために人々が抵抗を始めたのは当然のことだ。しかしそれだけではない。高江はこう語っている。「子供たちは私達から何を受け継ぐのでしょうか?出来れば戦争や汚染された大地や、空気や水などでなく、自然のめぐみいっぱいの平和な日々であってほしいと願わずにはいられません。」
辺野古にしても、高江にしても直接的には自らに生活のために立ち上がったのだとしても、それに留まることなく、人間としての、全自然の中での人間のあるべき姿をはっきりとその根底においているのだ。それ故多くの人々の心をとらえ、共感をよびおこしているのだ。無抵抗の抵抗と称した伊江島の人々の抵抗は、脈々と今日に受け継がれている。
本土並みを旗印に、日本の施政権下に入って40年の沖縄。北朝鮮の馬鹿げたパフォーマンスを巧みに利用した自衛隊による訓練、日米共同軍事演習、中国との領有権争いを激化させることを目論んだ尖閣諸島の買い取り騒動等々。戦争は二度としないという憲法9条をないがしろにした動きのただ中に沖縄はある。戦争は人間ばかりでなく総ての自然を破壊する以外何物ももたらさない、絶対的悪である。自然には領土も国境もない。そこに生息する生き物にも。そして本来的には自然の一部として暮らす人間にも。
国道331を高江に向かって走っていると木の陰からチラッと田んぼがほんの一瞬見えた。沖縄で初めて見た。それだけでなく何か判らないがふっと感じたものがあった。この時期ヤンバルの森はノグチゲラの営巣期とあって沖縄防衛局も動きを止めていて比較的平穏だった。それでも演習地内に不自然に草や木の生えない所が見つかって、ベトナム戦争の頃米軍が何かを蒔いているのを見たという証言もあって、問題になっていた。

高江は小さな集落だ。もちろん旅館や民宿はない。その晩は、座り込みの応援に来た人用の簡易の宿泊所に留めてもらった。その夜たまたま保育園の卒園の御祝いの一品持ち寄りの集まりがそこであって私も参加させてもらった。最後は男たちの酒の場になった。そこで昼間見た田んぼの話をすると、そこは自分の田んぼだと言う人がいた。聞いてみると関東の方から沖縄に来て有機無農薬農業をやっているという。それだけでなく私達もかつて、稲についてお世話になった稲葉光圀さんの民間稲作研究所で研修したという。それで分かった。あのちらっと見た時感じたのは、普通の田んぼとの植え方の違いだった。あくる日帰りにその田んぼに立ち寄った。若い研修生が2人せっせと補植していた。小さな貝が沢山いて根をかじるという。

すべて手植えの有機無農薬故の今は寂しい田んぼ。彼らと別れてハンドルを握った時なぜか、胸が弾んだ。
2012.5.10
by halunet
| 2012-05-12 09:30
| 沖縄
























