2012年 02月 17日
5台の壊れたカメラ/パレスチナ農民がビデオカメラで記録したドキュメンタリが世界で喝采を浴びている。 |
◆JSRメルマガ◆ パレスチナ最新情報 12・02・17
から映画の紹介です。以下、転載です。
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ニュース速報で何度も紹介しているので、「壁」と闘っているビルイーン(または、ビルイン)村はご記憶でしょう。その当事者の一人が長年にわたるこの闘争を記録した映画「5台の壊れたカメラ」が完成し、昨年11月、アムステルダム国際ドキュメンタリーフィルム・フェスティバル、続いて今年1月サンダンス・フィルム・フェスティバルの世界ドキュメンタリー部門で入賞しました。
撮影者であるイマード・ブルナート氏自身の家に踏み込み、子どもを連行しようとするイスラエル兵、ブルナート氏のカメラを奪い取り地面にたたきつけるイスラエル人入植者の動画像など、迫力ある実写です。
この記事は、1月22日のニューヨーク・タイムズ、25日のインタナショナル・ヘラルド・トリビューンにも掲載されたので、ご存知の方もあるかもしれません。
当編集部は、シェア(国際保健協力市民の会)の代表理事である本田徹氏から、この記事を知らされました。完成に至るまでの経緯や苦労がわかるこの貴重な映画を紹介するため、編集部の長沢が翻訳しました。日本でも劇場公開される日が来ることを願わずにはいられません。きっと待ち遠しくなるはず。
■□ 「あるパレスチナの町の記録」 □■
NYT, 2012年1月22日掲載
IHT, 2012年1月24日掲載
「あるパレスチナの町の記録」西岸地区、ビルイーン
西岸の農民が撮影したドキュメンタリー・ビデオが喝采を浴びる
イーサン・ブロンナー記
イマード・ブルナートはその土地に生まれ、西岸のこの山の上にある村に住む彼の家族が幾世代も前から生きてきたように、石だらけの土地からなんとか足りるだけの糧を得て暮らしてきた。しかし、6年前に息子を授かったとき、彼はビデオカメラを贈られ、はからずも村の記録者になっていった。
記録することはたくさんあった。イスラエルが、彼の家族の土地を含む村の土地に、分離壁を建設していた。自爆攻撃を防ぐというのが表向きの理由だったが、村の耕作地のほとんどを取り上げ、広大なイスラエル入植地をさらに拡大するためのものであった。
ブルドーザーが何百年もの樹齢を誇るオリーブの木を根こそぎ引き抜いている間に、入植者たちが家具や可動式家屋を運んで入ってきた。村人たちはその道に立ちはだかった。兵士たちは彼らを逮捕した。ブルナート氏は来る日も来る日もそこに立ち、新品のカメラで撮影した。
現在、ブルナート氏はイスラエルの映画製作者であるギー・ダビディ氏とともにビデオ撮影に数年をかけ、人の心をとらえて離さないひとりの人間の物語に仕上げた。「5台の壊れたカメラ(Five Broken Cameras)」というタイトルがつけられたこの映画は11月、アムステルダム国際ドキュメンタリーフィルム・フェスティバルで観客賞を含む2つの賞を受賞した。そして、今週ユタ州で開かれたサンダンス・フィルム・フェスティバルの世界ドキュメンタリー部門で十数本の参加出品作品と競って賞を勝ちとった。
ビルイーン(通称ビリン)はパレスチナ人の民衆抵抗運動の中心地となっていた。イスラエル人や外国から参加している活動家たちとともに毎週デモを続け、最高裁で、分離壁を取り壊すよう命じる判決を勝ちとり、土地も全部ではないが返還するよう命じる部分的な勝訴の判決も勝ち取った。だから、ビルイーンを撮ったブルナート氏の映像はきわめて重要なものとなった。その映像はジャーナリストばかりでなく、イスラエルの軍事法廷であらぬ嫌疑をかけられた人々によっても有効に利用されてきた。暴力行為の訴追があると、「イマードのビデオテープで調べたらいい」ということになり、反証の証拠となることもあった。
新作のドキュメンタリーは、ブルナート氏の幼い息子のジブリールが初めてしゃべった言葉(「弾薬筒」「軍隊」など)とともに、分離壁に抵抗する村民たちの姿を何度も映し出す。イスラエルのエージェントが友人や親戚を連行していくシーン、ブルナート氏の妻のソラヤさんが、政治から手を引いて家族と一緒にいてほしいと夫に懇願する場面も映し出される。6年余で、ブルナート氏は5台のビデオカメラを使ったが、次から次へと撮影の間に壊れていった。壊れた理由はいろいろだが、兵士が放った弾丸によって壊されたもの、怒る入植者によって壊されたものもある。
撮影をはじめるとき、ブルナート氏はテーブルにカメラを並べる。それらのカメラは、映画の章立てを形作っていき、物語を組み立てるモチーフを生み出す。目撃者を持つ力である。ブルナート氏は決して自分のカメラを降ろさない。だから、敵をかっかとさせる。「撮影を続けるなら、骨をへしおってやる、とあいつに言ってやれ!」とある入植者が兵士に向かって叫んだ。しかし、ブルナート氏は撮り続けていた。そこで業を煮やした入植者が彼に近づき、カメラが回り続けている最中に、横からつかみとり、地面に投げつけた。そこで映像は白くなっている。
「ビデオカメラで撮影していると、まるでカメラが自分を守ってくれているように感じるものです」と、ジャーナリストであれば誰でも同感する話をするのだが、ブルナート氏は「けれども、実際には守られてはいません」と映画のナレーションで穏やかに語る。
こういうシーンがある。兵士たちがブルナート氏の家にやって来たとき、(カメラに向かってブルナート氏は「今度は私が逮捕される番」とこっそり語るが、) 投石と兵士に対する暴力行為の容疑で彼は逮捕される。その容疑について彼はその場でも否認していたが、後日、陸軍のスポークスマンが、彼の容疑は晴れたことを明らかにしている。ブルナート氏は、兵士たちが自分の家の中に押し入ってくる、まさにその場面をフィルムに収めている。『閉鎖軍事地域』にいるのだから、カメラの電源を切らなくてはならないなどという、まるでシュールな(超現実的)主張をしているところもビデオは捉えている。「私は自分の家にいるのですが」とブルナート氏が答えているところも記録されている。彼は、3週間投獄されて、その後6週間自宅軟禁に置かれた。この事件が無事に収束するにはその後3年がかかることになる。
この映画のもう一つのストーリーは、ブルナート氏の二人の親友であるアディーブとバッサーム・アブー・ラフマ(二人は従兄弟)の政治活動である。バッサームはアラビア語で象を意味する「フィール」というニックネームで呼ばれていた。ふたりともデモ行進では先頭に立ち、陽気で度量の広い男たちだった。フィールは2009年のデモで殺された。ブルナート氏はもともと彼の映画を製作しようと考えていたのだった。
だが、イスラエルの「グリーンハウス」という、地域の映画製作者たちとヨーロッパのメンター(助言者、相談相手)とがペアを組み、EUの財政支援を受けて活動する組織があるが、そのグリーンハウスとダビディ氏が、ブルナート氏を主人公とする物語にしようということで彼を説得した。それが映画に力を与え、親しみを感じさせる作品とした決定的な決め手だ。しかしそれは簡単に実現したのではない。
「そういう個人的な映画を作るということには葛藤があり、なかなか決心がつきませんでした。」自宅の庭にすわって、40歳のブルナート氏はそう言った。6歳になるジブリールと兄たちは、あたりをあっちこっちと歩きまわっており、モディイン・イリット入植地の高層建築が遠くから見える。「私は自分の妻の姿を映画で見せる、さらけ出すことには気が進みませんでした。ヨーロッパでは普通のことかもしれないでしょうが、このパレスチナではそうではないのです。考えなくてはならないことがたくさんあるのです。今まで、この映画をこの地では上映しないようにしてきました。」
イスラエル人共同ディレクターとなったダビディ氏(当時33歳)がビルイーンを初めて訪れたのは2005年だった。入植地で建設の仕事をしているパレスチナ人労働者たちのドキュメンタリーを撮影しようとしていた。そこで、彼はブルナート氏に出会ったのだ。「私たちは自分たちの、地味でいいから控えめな映画を作りたかったのです。挑発的なものでなく、好戦的なものでもなく」と、ダビディ氏は語る。
個人に焦点を当てて描く映画のスタイルだけが、ブルナート氏を悩ませたわけではない。イスラエルの映画製作者といっしょに仕事し、グリーンハウスから支援を受けるということが議論の対象とされた。パレスチナの運動では、イスラエルにかかわるあらゆるものをボイコットする動きを急速に強めている。理論的には、ボイコット運動が成果をあげ占領に終止符が打たれるまで、関係の「正常化」につながる接触を凍結するというものである。
「私たちがアムステルダムで映画を上映したとき、パレスチナ人、アラブ人たちが私に近寄ってきて言ったのは、イスラエル人たちと一緒によく仕事が出来るものだなあ、という言葉でした。」そうブルナート氏は打ち明ける。そして「はじめから、ビルイーンの闘いはイスラエルの活動家たちを巻き込んでいたのですがねえ」と言い足す。
グリーンハウスは、アルジェリア、エジプト、ヨルダン、イスラエル、レバノ
ン、モロッコ、チュニジア、トルコ、パレスチナ占領地の映画製作を支援し、これまで15本の映画のスポンサーとなってきたし、計100人の映画製作者たちと仕事をしてきた。中東ではグリーンハウスのしていることをよく思わない人が多いということをグリーンハウスも知っている。
グリーンハウスの経営者であるシガル・イェフダさんはこう語る。この問題は中東各地でグリーンハウスがスポンサーとして主催するセミナーなどで広く自由に議論されていると。
「共に生きるという意味での共存は、この活動の最も重要な実りの一つです。」そしてこう語る。「(グリーンハウスと)関わった映画人たちは、知識も豊かで、優秀な頭脳の人々ですし、しかもイスラエル人たちと一緒に暮らし、食事をしたり、踊ったりすらした人たちなのです。」
ブルナート氏にとって、共存はきわめて微妙な問題だ。2008年の末近く、彼は分離壁にトラックで突っ込む事故を起こしてしまい、重傷を負った。パレスチナの救急車が駆けつけてくれたが、イスラエル兵たちも同時に到着した。彼らは事故で負ったブルナート氏の大怪我の状態を見て、イスラエルの病院に運び込んだのだった。
「パレスチナの病院に運ばれていたら、多分生きていなかったのではと思います」とブルナート氏は言う。彼は、20日間昏睡状態だった。そしてその3ヵ月後、彼は撮影に戻っていた。幼いジブリールはその彼の後を追いかけていた。
「ジブリールに私がしてあげられることといえばたった一つ。」映像の中にいるジブリールを見ながら、ブルナート氏は、映画を観ている皆に向かってこう続ける。「自分自身の目であらゆるものを見るという力を付け、どんなに人生が傷つきやすいものであっても、それに立ち向かう力を持たせることです。」
その数週間後、イスラエルの催涙ガス弾が彼の友人、フィールの胸に命中した。即死であった*。
(訳・長沢美沙子)
*編集部注:彼が殺される瞬間を撮ったブルナート氏の映像は、故・佐藤レオ監督が紹介した短い作品「さらば友よ」に収録されています。「さらば友よ」は2009年夏、JPMA主催の映画会で、「ビリン・闘いの村」と同時に上映しました。
なお、映画「5台の壊れたカメラ(5 Broken Cameras)」で検索すれば、映画の概説、コメントや意見を載せているサイトがわかります。また、6分ほどの短いプロモーションビデオをvimeo.comやyoutubeで視ることができます。以下は、主なサイトです。
紹介したNYTやIHTのイーサン・ブロンナー氏の記事が掲載されています。優れたドキュメンタリーフィルムを紹介したり、発掘したりするサイトです。
http://vimeo.com/21967570
作品「5台の壊れたカメラ(5 Broken Cameras)」の動画の一部(5分半)が視聴できます。おすすめです。
http://vimeo.com/21967570
第24回アムステルダム国際ドキュメンタリー映像祭のサイト。http://www.idfa.nl/industry/tags/project.aspx?ID=3c05550a-e5e2-4ef4-83ce-78e101bd811e
サンダンス映画祭のサイト。
http://filmguide.sundance.org/film/120072/5_broken_cameras
by halunet
| 2012-02-17 23:15
| パレスチナの平和
























