2010年 10月 15日
憲法9条こそ最強の安全保障政策だ〜天木直人の安全保障論(2) |
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20100921/216322/?P=4
日経ビジネスOn Lineから
次に、日米同盟は、もはや日本を守るものではなく、米国の戦争に日本を協力させるための手段になっているということだ。米国が最優先する軍事政策は、いまや「テロとの戦い」となった。その事を米国は繰り返し公言している。「テロとの戦い」とは、米国のパレスチナ政策に反発するイスラム武装抵抗組織との戦いである。日本の安全保障とは何の関係もない戦いである。それどころか、その米国と軍事協力を進める事によって「テロとの戦い」に加担する事になる。日本が、テロの標的になる危険性が出てくる。
3番目に、「日米同盟はアジア諸国もまたそれを望んでいる」という事の欺瞞である。最近よく、「日米同盟は日本だけで変えられるものではなく、もはやアジアの国際公共財である」と語られる。とんでもない詭弁だ。アジア諸国が日米同盟の解消に反対する最大の理由は、米国から離れた日本が軍事的に再び暴走するかもしれない、という懸念があるからだ。いわゆる在日米軍が日本の軍国主義復活を抑えてくれているという「ビンのふた」論である。日本にとってこれほど屈辱的なことはない。
4番目に日米同盟安上がりだ、という議論もよく唱えられる。米国も恩着せがましくそれを唱える。いわゆる安保ただ乗り論だ。これも噴飯ものである。日米同盟のためにどれほど日本は経済的負担を強いられてきたことか。米国兵器の購入から始まって在日米軍基地対策費などその負担は世界最大だ。思いやり予算という屈辱的な経費まで負担している。さらに言えば、「米国に守ってもらっている」という負い目から、米国の国債購入や戦費肩代わりのために、国民が稼いだ金を米国に差し出してきた。その経済負担は数字にできないほど大きいはずである。日米同盟のコストは決して安くない。
軍事増強論の誤り
米国への軍事依存から離れるということは、自らの手で日本を守るということである。そう言うと、「だから憲法9条を改めて、自らの軍事力を強化して日本を守らなければならない」という意見がすぐに出てくる。しかし軍事力の強化による自主防衛は、日本にとって取り得ない政策である。
軍事力によって日本を守ろうとすれば、軍事力拡大に歯止めがかからない。「敵より強い軍事力を持たないと負ける」という恐怖感から、さらなる軍拡に走らざるを得ない。行き着く先は核武装だ。
しかし日本が核保有国になる選択肢はない。アジア諸国から警戒され、世界から孤立する。そして、誰よりも米国が日本の核保有を絶対に認めない。軍事力を拡大して日本が単独で日本を守るという選択はないのである。米国が認めない軍事増強政策を日本政府が取ることはない。
自衛隊は専守防衛に徹するべきである
その一方で護憲論者の中には自衛隊が違憲だと言い張って、今でも自衛隊を認めない人々がいる。確かに憲法9条が成立したとき、自衛隊を持つ事は想定されていなかった。その意味で自衛隊は違憲だ。しかし米国によってつくらされた自衛隊はその後の半世紀あまりの時の経過を経て、国民に受け入れられるところとなった。自衛隊は戦争に巻き込まれることなく、災害救助など国民生活に貢献してきた。
そのような自衛隊について「合憲か違憲か」、「軍隊か軍隊ではないのか」、などと言った議論を行なうのは不毛だ。重要な事は、米国軍の指揮・命令下に置かれて、米軍の下請け軍隊のようになってしまった自衛隊を、日本を守る事に専念する日本の自衛隊として取り戻す事である。米軍に使われる膨大な予算を、日本を守る防衛予算に「事業仕分け」することなのである。
その意味で自衛隊は日本領土から一歩も出してはいけない。最近やたら自衛隊の海外派遣が国際貢献の名の下に行なわれるようになった。自衛隊法が改正されて自衛隊の国際貢献が本業となった。私はこの動きに危ういものを感じる。国際貢献の名の下に、自衛隊が米国の戦争に協力しようとしている疑念を抱く。自衛隊は国際協力の前に、まず自国を守る事に専念すべきである。専守防衛の意味はまさしくここにある。
日本を襲う国が存在するのか
日本の防衛政策を語る上で最も重要な事は、一方的に攻撃してくる国があるのかということである。かつての日本ならいざ知らず、憲法9条を掲げて他国を侵略する意図がないとを日本は公言している。
日本にとっての潜在敵国はどこの国か。冷戦下においては日本の脅威は共産主義の大国ソ連であったことは衆目の一致するところだ。だからソ連の脅威に備えて装備を考えた。しかし冷戦が終わり、もはやロシアは仮想敵国ではない。それは今では誰もが認める事だ。
ソ連に代わって、いまや、中国と北朝鮮が我が国にとっての脅威であるかのごとく語られる。しかしそれは本当だろうか。
確かに最近の中国を見ていると、経済の発展とともに一大軍事大国を目指しつつある国のように見える。しかし軍事力の大きさは、そのまま軍事的脅威を意味するわけではない。軍事的脅威とは、軍事力に加えて、それを行使する意思があるかどうかで決まる。少なくとも、見通せる近い将来において、中国が日本を武力攻撃しようとする意思はない。中国にとって日本を攻撃するメリットはないからだ。中国政府にとっては、国内経済を発展させ、国民生活を向上させることが当面の最優先政策であるはずだ。これから、日本と中国の経済的結びつきはますます拡大していく。経済関係の深まりは軍事的脅威を抑止する。
それでは北朝鮮は日本とって脅威なのか。北朝鮮脅威論は中国脅威論よりももっと根拠がない。北朝鮮と日本との間に存在する喫緊の問題は北朝鮮の核問題ではない。核問題は米国に任せておけばいい。米国と北朝鮮の問題なのだ。日本が何を言っても米国と北朝鮮が話し合えばそれですべてが決まる。
日本と北朝鮮の喫緊の問題は、過去の歴史の清算であり国交正常化問題である。拉致問題は国交正常化の問題と一体となって同時解決されるべき外交問題なのである。北朝鮮が核兵器を持って暴発する危険性が指摘される。しかし、そのような特殊な可能性のために防衛を考えるのは誤りだ。暴発をなくす外交努力こそ必要なのだ。
百歩譲って中国や北朝鮮が日本の軍事的脅威であるとしよう。そうであればこそ日本は、中国と北朝鮮を含めたアジア集団安全保障体制の構築を目指すべきなのである。なぜならば日本の脅威はそれらの国しかない以上、それらの国との安全保障体制を考えるのが当然であるからだ。
地域的集団安全保障については既に、1995年に欧州安全保障協力機構ができている。EUもまた広い意味での集団安全保障体制だ。EU諸国の間で戦争が起こる事はもはや考えられなくなりつつある。アジアでそれができないはずはない。アジアの集団安全保障体制ができなかった理由として政府はしきりにアジアの多様性、異なる体制の混在などを挙げる。しかし、いずれも真の障害要因ではない。本当の理由は日米同盟の存在理由が失われるからではないか。
憲法9条を掲げた日本が本気になってそれを提唱すれば反対できる国はない。それができなかったのは日本が日米同盟を優先し、米国の機嫌を損ねる事を恐れて本気でそれを追求してこなかったからだ。アジア集団安全保障体制は、まさしく日米安保体制の対極にある安全保障体制なのである。
米国がアジア集団安全保障体制に参加したいというならそれを拒否する理由はない。しかし米国が加盟すると米国の意向が優先され、国連の二の舞になる可能性がある。アジアの国に限定したほうがよいのではないか。アジアの集団安全保障体制は、極端に言えば中国、韓国をパートナーとする非戦協定のようなものと言える。
不戦時代の到来とテロとの戦い
戦争とか軍事力だとか、我々は軽々しく口にする。だが、そのような言葉を口にする日本国民の果たしてどれほどの者が、今日における戦争の悲惨さを認識しているだろうか。我々の戦争体験は65年前の太平洋戦争で止まっているが、その後の軍事技術の発達は兵器の殺傷能力を飛躍的に高めた。それは国家間の全面戦争を不可能にした。犠牲が大きすぎるからだ。核戦争に勝者はない。核兵器によって世界は不戦時代に入ったという認識はもはや国際政治論者の間で広く共有されつつある。
その唯一の例外が米国の「テロとの戦い」である。しかし、これは国家間の戦争ではない。圧倒的に軍事的優勢に立つ者が一方的に弱者を殺戮する。被抑圧者が命と引き換えに抵抗する。そのような非対称な戦いだ。そこには抑止力は働かない。米国が核廃絶を言い出すようになったのは決して核兵器そのものに反対したからではない。自分たちに核兵器が使われる危険性が高まったからだ。「テロリスト」に核が渡るぐらいならいっそ無くしてしまえ、というわけだ。
「テロとの戦い」をこれ以上米国に続けさせてはいけない。「テロとの戦い」の誤りを米国に気づかせなければならない。テロの根本原因である米国の不正義な中東政策を改めさせなければならない。それができないのであれば、少なくとも日本は、そのような米国の戦争から距離を置く。これこそが、これからの日本の防衛政策を考える上で重要な点である。
日本は戦争ができない国になった
それでも中国や北朝鮮が攻めてきたらどうするのだ、という声が聞こえてきそうだ。ならばそう主張をする者に聞きたい。今の戦争はミサイル戦争である。大都市に国家機能を集中させている日本、全国に原子力発電所を抱えている日本、そんな国が核ミサイル戦争に勝てると思うのか、と。1発のミサイルが都心に落ちただけで、その被害は想像に余りある。原発施設にミサイルが投下さたなら、いったいどんな惨状を呈するか? いくら日本が核迎撃システムを高い金を払って米国から買っても、迎撃ミサイルがすべてのミサイルを撃ち落すことは不可能だろう。日本は近代戦争に対して最も脆弱な国になってしまった。日本は戦争ができない国、してはならない国になってしまった。日本は何があっても戦争をしてはいけない国になったのである。
憲法9条は最強の安全保障政策である
要するに我が国のこれからの安全保障政策は、専守防衛の自衛隊、アジア集団安全保障体制の構築、憲法9条を世界に宣言して行なう平和外交、この三位一体の政策で構成するものであるべきだ。これが私の新防衛計画の大綱私案である。
そして、その中で最も重要な政策が憲法9条を堅持することである。それなくしては、専守防衛の自衛隊もアジア集団安全保障体制を求める外交努力も説得力と正当性を持ち得なくなる。
憲法9条は単に条文だけでできているものではない。そこには戦後65年間の我が国の戦後史が凝縮している。米国の占領政策に振り回されながらも平和国家日本を貫き通した先人たちの苦労と英知が詰まっている。そんな憲法9条を失う事は、同時に、戦後の歴史を失う事だ。日本の防衛政策を失う事だ。憲法9条こそ最強の安全保障政策である。
日経ビジネスOn Lineから
次に、日米同盟は、もはや日本を守るものではなく、米国の戦争に日本を協力させるための手段になっているということだ。米国が最優先する軍事政策は、いまや「テロとの戦い」となった。その事を米国は繰り返し公言している。「テロとの戦い」とは、米国のパレスチナ政策に反発するイスラム武装抵抗組織との戦いである。日本の安全保障とは何の関係もない戦いである。それどころか、その米国と軍事協力を進める事によって「テロとの戦い」に加担する事になる。日本が、テロの標的になる危険性が出てくる。
3番目に、「日米同盟はアジア諸国もまたそれを望んでいる」という事の欺瞞である。最近よく、「日米同盟は日本だけで変えられるものではなく、もはやアジアの国際公共財である」と語られる。とんでもない詭弁だ。アジア諸国が日米同盟の解消に反対する最大の理由は、米国から離れた日本が軍事的に再び暴走するかもしれない、という懸念があるからだ。いわゆる在日米軍が日本の軍国主義復活を抑えてくれているという「ビンのふた」論である。日本にとってこれほど屈辱的なことはない。
4番目に日米同盟安上がりだ、という議論もよく唱えられる。米国も恩着せがましくそれを唱える。いわゆる安保ただ乗り論だ。これも噴飯ものである。日米同盟のためにどれほど日本は経済的負担を強いられてきたことか。米国兵器の購入から始まって在日米軍基地対策費などその負担は世界最大だ。思いやり予算という屈辱的な経費まで負担している。さらに言えば、「米国に守ってもらっている」という負い目から、米国の国債購入や戦費肩代わりのために、国民が稼いだ金を米国に差し出してきた。その経済負担は数字にできないほど大きいはずである。日米同盟のコストは決して安くない。
軍事増強論の誤り
米国への軍事依存から離れるということは、自らの手で日本を守るということである。そう言うと、「だから憲法9条を改めて、自らの軍事力を強化して日本を守らなければならない」という意見がすぐに出てくる。しかし軍事力の強化による自主防衛は、日本にとって取り得ない政策である。
軍事力によって日本を守ろうとすれば、軍事力拡大に歯止めがかからない。「敵より強い軍事力を持たないと負ける」という恐怖感から、さらなる軍拡に走らざるを得ない。行き着く先は核武装だ。
しかし日本が核保有国になる選択肢はない。アジア諸国から警戒され、世界から孤立する。そして、誰よりも米国が日本の核保有を絶対に認めない。軍事力を拡大して日本が単独で日本を守るという選択はないのである。米国が認めない軍事増強政策を日本政府が取ることはない。
自衛隊は専守防衛に徹するべきである
その一方で護憲論者の中には自衛隊が違憲だと言い張って、今でも自衛隊を認めない人々がいる。確かに憲法9条が成立したとき、自衛隊を持つ事は想定されていなかった。その意味で自衛隊は違憲だ。しかし米国によってつくらされた自衛隊はその後の半世紀あまりの時の経過を経て、国民に受け入れられるところとなった。自衛隊は戦争に巻き込まれることなく、災害救助など国民生活に貢献してきた。
そのような自衛隊について「合憲か違憲か」、「軍隊か軍隊ではないのか」、などと言った議論を行なうのは不毛だ。重要な事は、米国軍の指揮・命令下に置かれて、米軍の下請け軍隊のようになってしまった自衛隊を、日本を守る事に専念する日本の自衛隊として取り戻す事である。米軍に使われる膨大な予算を、日本を守る防衛予算に「事業仕分け」することなのである。
その意味で自衛隊は日本領土から一歩も出してはいけない。最近やたら自衛隊の海外派遣が国際貢献の名の下に行なわれるようになった。自衛隊法が改正されて自衛隊の国際貢献が本業となった。私はこの動きに危ういものを感じる。国際貢献の名の下に、自衛隊が米国の戦争に協力しようとしている疑念を抱く。自衛隊は国際協力の前に、まず自国を守る事に専念すべきである。専守防衛の意味はまさしくここにある。
日本を襲う国が存在するのか
日本の防衛政策を語る上で最も重要な事は、一方的に攻撃してくる国があるのかということである。かつての日本ならいざ知らず、憲法9条を掲げて他国を侵略する意図がないとを日本は公言している。
日本にとっての潜在敵国はどこの国か。冷戦下においては日本の脅威は共産主義の大国ソ連であったことは衆目の一致するところだ。だからソ連の脅威に備えて装備を考えた。しかし冷戦が終わり、もはやロシアは仮想敵国ではない。それは今では誰もが認める事だ。
ソ連に代わって、いまや、中国と北朝鮮が我が国にとっての脅威であるかのごとく語られる。しかしそれは本当だろうか。
確かに最近の中国を見ていると、経済の発展とともに一大軍事大国を目指しつつある国のように見える。しかし軍事力の大きさは、そのまま軍事的脅威を意味するわけではない。軍事的脅威とは、軍事力に加えて、それを行使する意思があるかどうかで決まる。少なくとも、見通せる近い将来において、中国が日本を武力攻撃しようとする意思はない。中国にとって日本を攻撃するメリットはないからだ。中国政府にとっては、国内経済を発展させ、国民生活を向上させることが当面の最優先政策であるはずだ。これから、日本と中国の経済的結びつきはますます拡大していく。経済関係の深まりは軍事的脅威を抑止する。
それでは北朝鮮は日本とって脅威なのか。北朝鮮脅威論は中国脅威論よりももっと根拠がない。北朝鮮と日本との間に存在する喫緊の問題は北朝鮮の核問題ではない。核問題は米国に任せておけばいい。米国と北朝鮮の問題なのだ。日本が何を言っても米国と北朝鮮が話し合えばそれですべてが決まる。
日本と北朝鮮の喫緊の問題は、過去の歴史の清算であり国交正常化問題である。拉致問題は国交正常化の問題と一体となって同時解決されるべき外交問題なのである。北朝鮮が核兵器を持って暴発する危険性が指摘される。しかし、そのような特殊な可能性のために防衛を考えるのは誤りだ。暴発をなくす外交努力こそ必要なのだ。
百歩譲って中国や北朝鮮が日本の軍事的脅威であるとしよう。そうであればこそ日本は、中国と北朝鮮を含めたアジア集団安全保障体制の構築を目指すべきなのである。なぜならば日本の脅威はそれらの国しかない以上、それらの国との安全保障体制を考えるのが当然であるからだ。
地域的集団安全保障については既に、1995年に欧州安全保障協力機構ができている。EUもまた広い意味での集団安全保障体制だ。EU諸国の間で戦争が起こる事はもはや考えられなくなりつつある。アジアでそれができないはずはない。アジアの集団安全保障体制ができなかった理由として政府はしきりにアジアの多様性、異なる体制の混在などを挙げる。しかし、いずれも真の障害要因ではない。本当の理由は日米同盟の存在理由が失われるからではないか。
憲法9条を掲げた日本が本気になってそれを提唱すれば反対できる国はない。それができなかったのは日本が日米同盟を優先し、米国の機嫌を損ねる事を恐れて本気でそれを追求してこなかったからだ。アジア集団安全保障体制は、まさしく日米安保体制の対極にある安全保障体制なのである。
米国がアジア集団安全保障体制に参加したいというならそれを拒否する理由はない。しかし米国が加盟すると米国の意向が優先され、国連の二の舞になる可能性がある。アジアの国に限定したほうがよいのではないか。アジアの集団安全保障体制は、極端に言えば中国、韓国をパートナーとする非戦協定のようなものと言える。
不戦時代の到来とテロとの戦い
戦争とか軍事力だとか、我々は軽々しく口にする。だが、そのような言葉を口にする日本国民の果たしてどれほどの者が、今日における戦争の悲惨さを認識しているだろうか。我々の戦争体験は65年前の太平洋戦争で止まっているが、その後の軍事技術の発達は兵器の殺傷能力を飛躍的に高めた。それは国家間の全面戦争を不可能にした。犠牲が大きすぎるからだ。核戦争に勝者はない。核兵器によって世界は不戦時代に入ったという認識はもはや国際政治論者の間で広く共有されつつある。
その唯一の例外が米国の「テロとの戦い」である。しかし、これは国家間の戦争ではない。圧倒的に軍事的優勢に立つ者が一方的に弱者を殺戮する。被抑圧者が命と引き換えに抵抗する。そのような非対称な戦いだ。そこには抑止力は働かない。米国が核廃絶を言い出すようになったのは決して核兵器そのものに反対したからではない。自分たちに核兵器が使われる危険性が高まったからだ。「テロリスト」に核が渡るぐらいならいっそ無くしてしまえ、というわけだ。
「テロとの戦い」をこれ以上米国に続けさせてはいけない。「テロとの戦い」の誤りを米国に気づかせなければならない。テロの根本原因である米国の不正義な中東政策を改めさせなければならない。それができないのであれば、少なくとも日本は、そのような米国の戦争から距離を置く。これこそが、これからの日本の防衛政策を考える上で重要な点である。
日本は戦争ができない国になった
それでも中国や北朝鮮が攻めてきたらどうするのだ、という声が聞こえてきそうだ。ならばそう主張をする者に聞きたい。今の戦争はミサイル戦争である。大都市に国家機能を集中させている日本、全国に原子力発電所を抱えている日本、そんな国が核ミサイル戦争に勝てると思うのか、と。1発のミサイルが都心に落ちただけで、その被害は想像に余りある。原発施設にミサイルが投下さたなら、いったいどんな惨状を呈するか? いくら日本が核迎撃システムを高い金を払って米国から買っても、迎撃ミサイルがすべてのミサイルを撃ち落すことは不可能だろう。日本は近代戦争に対して最も脆弱な国になってしまった。日本は戦争ができない国、してはならない国になってしまった。日本は何があっても戦争をしてはいけない国になったのである。
憲法9条は最強の安全保障政策である
要するに我が国のこれからの安全保障政策は、専守防衛の自衛隊、アジア集団安全保障体制の構築、憲法9条を世界に宣言して行なう平和外交、この三位一体の政策で構成するものであるべきだ。これが私の新防衛計画の大綱私案である。
そして、その中で最も重要な政策が憲法9条を堅持することである。それなくしては、専守防衛の自衛隊もアジア集団安全保障体制を求める外交努力も説得力と正当性を持ち得なくなる。
憲法9条は単に条文だけでできているものではない。そこには戦後65年間の我が国の戦後史が凝縮している。米国の占領政策に振り回されながらも平和国家日本を貫き通した先人たちの苦労と英知が詰まっている。そんな憲法9条を失う事は、同時に、戦後の歴史を失う事だ。日本の防衛政策を失う事だ。憲法9条こそ最強の安全保障政策である。
by halunet
| 2010-10-15 09:05
| 安全保障
























