2010年 01月 09日
新聞社説が取り上げたベーシックインカム |
中日新聞の社説がベーシックインカムを「政府が無条件に現金を給付して毎月の最低限の生活を保障しようとする新しい思想」として説明しながら、新しい社会への決断の年として抱負を述べています。
以下がその全文です。
=========
支え合い社会の責任 年のはじめに考える
2010年1月1日
政権交代の年は明けましたが私たちは歴史の大きな転換期のただ中にいるようです。厳しい時代への覚悟と明日のための賢明な決断が世代的責任です。
ベルリンの壁崩壊と時を同じくした平成の歩みも二十二年目。昨年の即位二十年に臨んでの天皇、皇后両陛下の記者会見は印象深いものでした。冷戦の終結で期待された平和とは裏腹な世界の動き。その無念さと人々の暮らしへの憂慮がにじんでいたからです。
国境の壁が消えて、一気のグローバル化が日本に見舞ったのは一億総中流社会への直撃弾でした。
歴史が問いかけている
市場原理主義は、企業に果てなき生産性向上とコスト削減競争を強い、年功序列や終身雇用の日本的慣行を捨てさせました。不安定雇用と低賃金労働は格差と働く貧困層を生みだしただけではありません。人々の行動と考えをカネ万能へと歪(ゆが)めました。
長期化する世界同時不況がより深刻なのは、百年に一度どころか十八世紀以来の資本主義そのものの行き詰まりの色彩を帯びていることです。石油などの化石エネルギー資源は無限でなく、環境面からも資本主義の「永遠の成長」には限界があることがはっきりしてきました。少子高齢化も人類の経験にはない難問です。
今回の政権交代は、そんな歴史からの問いかけと、それでも進むグローバル時代をどう生きるかへの一つの回答だったかもしれません。正確な未来予測は人知を超えるにしてもビジョン提示への最大限の努力は私たちの世代の任務です。
二〇一〇年度の政府予算案で新政権が実現させた子ども手当は、ベーシック・インカムの一種だともいわれます。政府が無条件に現金を給付して毎月の最低限の生活を保障しようとする新しい思想で、高校教育無償化や農家の戸別所得補償政策にもその新しい考えが流れているようです。
主体者としての覚悟は
高度経済成長時代に企業と家庭が担った福祉はグローバル経済下では不可能になりました。働く夫と専業主婦がモデルだった家庭も共働き夫婦に姿を変えています。子ども手当には、未来の担い手は社会が育てるとの理念とともに雇用不安と格差社会での新社会政策の側面が含まれます。「コンクリートから人へ」の財政配分も時代の要請でしょう。
医療や介護、教育や保育などはだれもが必要とする社会サービスで、やはり国が提供すべきでしょう。結婚したくてもできない、子どもを産みたくても産めない若者の増加をこれ以上見過ごすことはできないからです。
国の所得再分配機能と平等化が重要になっていますが、生活安心のための施策に財源の裏付けを要するのは言うまでもありません。月二万六千円の子ども手当には毎年五・五兆円の恒久的財源が、〇七年度に九十一兆円だった医療、年金、介護などの社会保障給付額は、二五年度には百四十一兆円に膨れると試算されています。財源問題をどうするのか。
歴史的と呼ばれた昨年の政権交代の真の意義は国民自身の手で政権交代を実現させたことでした。国民の一人一人が統治の主体者として責任を負ったのです。政治や社会の傍観者であることは許されず、どんな社会にするかの主体的覚悟をも問われたのです。
福祉や社会保障は弱者救済や施しの制度ではありません。われわれ自身の安心のためのシステムです。企業や家庭からみんなが支え合う時代へと移りつつあります。個人の自己責任でリスクに備えるよりみんなで支え合う方が有効ですし、失われてしまった社会連帯の精神を取り戻すことにもなるはずです。
政府も税や社会保険など国民負担について率直に語り、論議は深められていくべきです。消費税ばかりでなく所得税も。一九七〇年代は75%だった最高税率は現在40%、税の累進制や社会的責任の観点からこのままでいいかどうか。グローバル時代に適合する公平・効率の税制が構築されるべきです。わたしたちもその責任から逃れることはできません。
明日に希望がみえる
天皇は国家と国民のために祈る存在です。その天皇が先の即位二十年の会見で願われたのは「みなが支え合う社会」。高齢者や介護を必要とする人々のことを心に掛け、支えていこうという人々が多くなってきていることが感じられ、心強く思うとも語っています。そこに明日の希望がみえます。
権力の監視と批判を本来任務とするメディアの役割も重大です。新政権の打ち出す政策が真に国民みんなのためのものかどうか検証しなければならないからです。メディアもまた試されていることを胸に刻みたいと思います。
以下がその全文です。
=========
支え合い社会の責任 年のはじめに考える
2010年1月1日
政権交代の年は明けましたが私たちは歴史の大きな転換期のただ中にいるようです。厳しい時代への覚悟と明日のための賢明な決断が世代的責任です。
ベルリンの壁崩壊と時を同じくした平成の歩みも二十二年目。昨年の即位二十年に臨んでの天皇、皇后両陛下の記者会見は印象深いものでした。冷戦の終結で期待された平和とは裏腹な世界の動き。その無念さと人々の暮らしへの憂慮がにじんでいたからです。
国境の壁が消えて、一気のグローバル化が日本に見舞ったのは一億総中流社会への直撃弾でした。
歴史が問いかけている
市場原理主義は、企業に果てなき生産性向上とコスト削減競争を強い、年功序列や終身雇用の日本的慣行を捨てさせました。不安定雇用と低賃金労働は格差と働く貧困層を生みだしただけではありません。人々の行動と考えをカネ万能へと歪(ゆが)めました。
長期化する世界同時不況がより深刻なのは、百年に一度どころか十八世紀以来の資本主義そのものの行き詰まりの色彩を帯びていることです。石油などの化石エネルギー資源は無限でなく、環境面からも資本主義の「永遠の成長」には限界があることがはっきりしてきました。少子高齢化も人類の経験にはない難問です。
今回の政権交代は、そんな歴史からの問いかけと、それでも進むグローバル時代をどう生きるかへの一つの回答だったかもしれません。正確な未来予測は人知を超えるにしてもビジョン提示への最大限の努力は私たちの世代の任務です。
二〇一〇年度の政府予算案で新政権が実現させた子ども手当は、ベーシック・インカムの一種だともいわれます。政府が無条件に現金を給付して毎月の最低限の生活を保障しようとする新しい思想で、高校教育無償化や農家の戸別所得補償政策にもその新しい考えが流れているようです。
主体者としての覚悟は
高度経済成長時代に企業と家庭が担った福祉はグローバル経済下では不可能になりました。働く夫と専業主婦がモデルだった家庭も共働き夫婦に姿を変えています。子ども手当には、未来の担い手は社会が育てるとの理念とともに雇用不安と格差社会での新社会政策の側面が含まれます。「コンクリートから人へ」の財政配分も時代の要請でしょう。
医療や介護、教育や保育などはだれもが必要とする社会サービスで、やはり国が提供すべきでしょう。結婚したくてもできない、子どもを産みたくても産めない若者の増加をこれ以上見過ごすことはできないからです。
国の所得再分配機能と平等化が重要になっていますが、生活安心のための施策に財源の裏付けを要するのは言うまでもありません。月二万六千円の子ども手当には毎年五・五兆円の恒久的財源が、〇七年度に九十一兆円だった医療、年金、介護などの社会保障給付額は、二五年度には百四十一兆円に膨れると試算されています。財源問題をどうするのか。
歴史的と呼ばれた昨年の政権交代の真の意義は国民自身の手で政権交代を実現させたことでした。国民の一人一人が統治の主体者として責任を負ったのです。政治や社会の傍観者であることは許されず、どんな社会にするかの主体的覚悟をも問われたのです。
福祉や社会保障は弱者救済や施しの制度ではありません。われわれ自身の安心のためのシステムです。企業や家庭からみんなが支え合う時代へと移りつつあります。個人の自己責任でリスクに備えるよりみんなで支え合う方が有効ですし、失われてしまった社会連帯の精神を取り戻すことにもなるはずです。
政府も税や社会保険など国民負担について率直に語り、論議は深められていくべきです。消費税ばかりでなく所得税も。一九七〇年代は75%だった最高税率は現在40%、税の累進制や社会的責任の観点からこのままでいいかどうか。グローバル時代に適合する公平・効率の税制が構築されるべきです。わたしたちもその責任から逃れることはできません。
明日に希望がみえる
天皇は国家と国民のために祈る存在です。その天皇が先の即位二十年の会見で願われたのは「みなが支え合う社会」。高齢者や介護を必要とする人々のことを心に掛け、支えていこうという人々が多くなってきていることが感じられ、心強く思うとも語っています。そこに明日の希望がみえます。
権力の監視と批判を本来任務とするメディアの役割も重大です。新政権の打ち出す政策が真に国民みんなのためのものかどうか検証しなければならないからです。メディアもまた試されていることを胸に刻みたいと思います。
by halunet
| 2010-01-09 22:26
| ベーシックインカム