2008年 02月 28日
生きものは水と空気がなきゃ |
未来への想像力
森井雅子
「新しい対策協の出発」には、廃棄物の搬入開始が4月と書かれていましたが、操業開始は2009年度の予定です。
私は高根に住んでいますが、明野処分場に隣接する民間処分場「多摩金属」の調査に関わっています。その処分場跡地では、最終覆土から10年近く経つ現在でも、有毒ガスが出続けています。数人での手探りの調査ですが、次々と県の杜撰さが明らかになっています。「住民や自然環境に影響があっても気にしない」「その時を何とかやり過ごせばいい」というような県の対応は、未来への想像力を全く欠いているものです。
しかし、これは、私たちが置かれている「個」の存在のあり方の合わせ鏡のような気がします。
最近、この「多摩金属」の問題が起きた当時のことを知っている明野の人に、話を聞いてきました。そこで印象深かったのは、自然と人との関係です。「多摩金属」の下には湯沢川が流れています。川に連なる沢は、水田には欠かせない沢なので、住民は杉を植えて水源を守ったそうです。また、子供の頃、その沢には、1升びんで水を汲むために行列が出来たそうです。その方は、「今は水道があるから、見晴らしのいい高台に家を建てるが、昔はどこも川沿いに家を建てたものだ。生きものは水と空気がなきゃ、生きちゃいけんだから」と話してくれました。「人間は生きちゃいけん」とは言わず、「生きものは生きちゃいけん」という言葉には、人と自然、いのちと自然との本来の関係性がよく表わされていて、心に響きました。自然との付き合いを考えることは、長い長い時間の積み重ねを考えることだと思います。
私たちは、速く、豊かに、便利にということを望んだことも確かです。それが幸せにつながると。「中国餃子」は私たちが望んだ結果です。その時、自然は悠久の時間(いのちが繋がる)を考える対象ではなく、私たちの望みを叶えてくれる材料になったのだと思います。自然という他者との結びつきから切り離された近代的な個は、細切れの時間の中で自分のことで精いっぱいで、循環する時間へのリアリティを持てず、どんなに大切なことでも次々と消費していかなければ(部外者感を持たなければ)、毎日の生活ができない存在としてあるような気がします。
ここに書かれている「持続可能な地域社会として再生する道を市民全体に提起してほしい」という思いは、私も同感する部分はあります。過去にその試みがなされましたが、形あるものにはなりませんでした。このことは、対策協の問題ではなく、それぞれが個の存在のあり方を見つめ、繋がりのある存在として見直さなければ、普遍性や未来への想像力を獲得していくのは難しいのではないかと思うのです。
とは言うものの、さし迫った現実への敏感な対応も必要だと思っていまして。今後、明野処分場に関しては、機関紙配布、裁判、自然環境調査、バザーなどの資金稼ぎなど、できる方があれば、よろしくお願いします。
森井雅子
「新しい対策協の出発」には、廃棄物の搬入開始が4月と書かれていましたが、操業開始は2009年度の予定です。
私は高根に住んでいますが、明野処分場に隣接する民間処分場「多摩金属」の調査に関わっています。その処分場跡地では、最終覆土から10年近く経つ現在でも、有毒ガスが出続けています。数人での手探りの調査ですが、次々と県の杜撰さが明らかになっています。「住民や自然環境に影響があっても気にしない」「その時を何とかやり過ごせばいい」というような県の対応は、未来への想像力を全く欠いているものです。
しかし、これは、私たちが置かれている「個」の存在のあり方の合わせ鏡のような気がします。
最近、この「多摩金属」の問題が起きた当時のことを知っている明野の人に、話を聞いてきました。そこで印象深かったのは、自然と人との関係です。「多摩金属」の下には湯沢川が流れています。川に連なる沢は、水田には欠かせない沢なので、住民は杉を植えて水源を守ったそうです。また、子供の頃、その沢には、1升びんで水を汲むために行列が出来たそうです。その方は、「今は水道があるから、見晴らしのいい高台に家を建てるが、昔はどこも川沿いに家を建てたものだ。生きものは水と空気がなきゃ、生きちゃいけんだから」と話してくれました。「人間は生きちゃいけん」とは言わず、「生きものは生きちゃいけん」という言葉には、人と自然、いのちと自然との本来の関係性がよく表わされていて、心に響きました。自然との付き合いを考えることは、長い長い時間の積み重ねを考えることだと思います。
私たちは、速く、豊かに、便利にということを望んだことも確かです。それが幸せにつながると。「中国餃子」は私たちが望んだ結果です。その時、自然は悠久の時間(いのちが繋がる)を考える対象ではなく、私たちの望みを叶えてくれる材料になったのだと思います。自然という他者との結びつきから切り離された近代的な個は、細切れの時間の中で自分のことで精いっぱいで、循環する時間へのリアリティを持てず、どんなに大切なことでも次々と消費していかなければ(部外者感を持たなければ)、毎日の生活ができない存在としてあるような気がします。
ここに書かれている「持続可能な地域社会として再生する道を市民全体に提起してほしい」という思いは、私も同感する部分はあります。過去にその試みがなされましたが、形あるものにはなりませんでした。このことは、対策協の問題ではなく、それぞれが個の存在のあり方を見つめ、繋がりのある存在として見直さなければ、普遍性や未来への想像力を獲得していくのは難しいのではないかと思うのです。
とは言うものの、さし迫った現実への敏感な対応も必要だと思っていまして。今後、明野処分場に関しては、機関紙配布、裁判、自然環境調査、バザーなどの資金稼ぎなど、できる方があれば、よろしくお願いします。
by halunet
| 2008-02-28 17:40
| 廃棄物処分場問題