2007年 05月 17日
スピリチュアリティと平和運動 久松重光 |
今回は、長いことシュタイナーの人智学運動に携わってこられたアメリカの平和運動家のシューシャードご夫妻とネイティブ・アメリカンのワンパノグ族の女性のアーティスト、ラモナ・ピーター女史をお招きして、「アメリカの平和運動と海外から見た日本国憲法第9条」という講演を開きます。
以下講演のチラシとシューシャードご夫妻のプロフィールを紹介します。
世界の人々と横につながっていきませんか!
「アメリカの平和運動と海外から見た日本国憲法9条」
アメリカの平和運動家、ジョン&ケリー・シューシャード夫妻、ネイティブ・アメリカン(ワンパノグ族)のメディスンマンの家庭に生まれたアーティスト、ラモナ・ピーター女史が、4人の日本山妙本寺の僧侶の方々(そのうち3人はアメリカ人)と一緒に「平和の祈り」のために来日されました。そして皆さんは、八ヶ岳にも足を運んでくれることになりました。シューシャード夫妻とラモナさん、そして日本山のお坊さんのことを少し紹介します。ジョン(1939年生まれ)とケリーは二人で1990年に、世界各地に於ける戦争、紛争によって心身の被害に遭われた人々や、障害者の憩いの家「ハウス・オブ・ピース」を始められました。15年の間にお世話をした人は400を
超え、その出身国は30カ国にも渡ります。その活動の傍ら、ご夫妻は人々の意識を高め、戦争に向かう諸政策を平和なものへと転換するよう多くの活動に参加しています。ラモナさんは、北米ワンパノグ族のメディスンマンの娘で、ワンパノグ族の伝統的壷や瓶を復活させているアーティストです。ワンパノグ族はメイフラワー号が最初にやってきたプリモス近辺に古くから暮らす北米インディアンの部族で、彼らの祖先がヨーロッパからの客人に冬を越せないでいる時、食べ物を与えたいわば今のアメリカ人の祖先の命の恩人でした。彼らは、同行する日本
山の僧侶のかたがたと一緒に「平和の祈り」の行脚に日本に来ました。
こうした方々をお迎えしてアメリカでの平和運動についての講演会と交流会を開きます。9条がいかに貴重なものか、失ってから悟っても遅すぎます。世界初の原子爆弾による戦禍を体験
した日本には、世界に対して独特の使命があるように思えます。憲法9条が改変されようとしている今日、世界的視野に立って、改めて9条の意義そして平和について考え、行動すること
は、とても重要な課題です。世界の平和運動の息吹きを貴方も感じ、平和への意思を新たにしてみませんか。どうぞ奮ってご参加ください。
日時:2007年5月30日(水)6:30〜9:3
場所:小渕沢生涯学習センター:研修室
共催:風の輪学校・ルン
市民ピースネット山梨 北杜未来ネット
資料代:500円
ジョン&ケリー・シューシャード夫妻のプロフィール
ジョン(1939年生まれ)とケリーは二人で1990年に、世界各地に於ける戦争、紛争によって心身の被害に遭われた人々や、障害者の憩いの場キャンプヒル共同体として「ハウス=オブ
=ピース」を自宅を開放して始められました。15年の間に、お世話をした人400を超え、その出身国は30にも渡ります。アメリカで暮らしていけるよう、生活のめどが立つよう面倒をみてきました。
「ハウス=オブ=ピース」を日々運営していくかたわら、ご夫妻は人々の意識を高め、戦争に向かう諸政策を平和なものへと転換するよう、多くの活動に参加しています。とくにケリーは女性が公の場で証人となるネットワーク「ウーマン=ウイーピング」を始めました.彼女らは喪服に身を包み、生命を断たれた子供達を象徴する人形を抱きかかえて、マスコミでは殆どとりあげられることのない、戦争の戦慄すべき暴力に子供らを失った世界中の紛争地域の何十万もの母親たちの悲しみを訴えていきます。一方ジョンは戦地ベトナムへ送り込まれる前年の1965
年海兵隊より除隊し、以来「平和のための帰還兵」活動に意欲的に取り組んでおられます。
1980年ジョンは、他の7人の敬虔なるキリスト教徒とともに、最初のプラウシュアー行動も起こしました。これは非暴力直接行動です。旧約聖書の一節「汝、武器を鋤きに鋳変えよ、(中略)国家は再び戦争の過ちを繰り返してはならない」との言葉を元に、ペンシルバニア州の核兵器工場へ逮捕、投獄を覚悟でハンマーを持って侵入し、核弾頭の容器を使用不可にさせるほどのダメージを与えました。そして裁判によって合州国国家を訴え、核兵器の持つ真の恐ろしさと、核兵器廃絶がいかに必要なものであるかを説吃でけています。1983年にも同様のプラウシュアー行動をおこし、これらがその後のアメリカ中の70以上にも上るプラウシャー運動へと広がりを見せていきます。
新聞記事
"Peace is the Word"
North Shore Sunday 紙 2004年12月12日掲載
Frank Carini 記者
意訳
古い漁港の街にて、世界中の紛争地域の難民に憩いの場を与え続け14年、ハウスオブ=ピースの活動ますます勢いづく。両親を目の前で失い、人々が銃殺されるのを目撃し、命からがら逃げてきた子供たちや家族がたどり着くのは、ここイプスウィッチにあるHouse of Peace ハウス=オブ=ピース。ほとんどのものが言葉さえ失い、平和を渇望してここへやってくる。ハ
ウス=オブ=ピースは丘の上にある大きな白い家で、20の部屋をもち、1990年より世界中の紛争や戦争で全てを失った難民を受け入れてきた。創立者のケリー、ジョン=シューシャード夫妻は、これまでにスーダン、エチオピア、アフガニスタン、コソボ、ザンビア、などなど40の地域国を数える。ジョンの話では、「ほとんどのものがここにやってくる前に、人が考えられないほどのトラウマを背負ってくる。両親が目の前で暗殺された子もいれば、銃撃戦を経験してきた者もいる。全てを失い、あらゆる苦しみを経て、ここにやってくるもを受け入れてきました」という戦争孤児や家族たちが、ここに平和を求めてやってきます。あるものは、木から葉が落ちて冬になることを見たこともなかったり、ほとんどのものが、蛇口をひねれば水が出ることや、スイッチをつければ電気がつくことなど、体験もしたこともなく、電気をつけると顔を背ける子もいるとか。
ここ4エーカー(4600坪)のハウス=オブ=ピースで文字どおり暖かいもてなしを受け、安全を確保されて、衣食住をあたえられ、数週間から数カ月の間の、驚くほどわずかな期間で、みな自活できるようになり、これからアメリカで何とか暮らしていけるよう、方向付けのお世話までしてくれる。
ある時は、ソマリアの難民家族が2、4、6、9、12歳のこどもを引きつれ14年間ケニア国境内の難民キャンプで死線をさまよいながら、ここたどり着いた。そのすぐ後には、ボストンのストリートを50時間不眠でさまよっていたボスニアからの5人家族がここで保護された。その歳のハウス=オブ=ピースでの感謝祭の夕餉は50人に膨らんだという。ふた家族の父親は庭で落ち葉集めをし、母親たちは食事の用意、後片付けを手伝い、ボスニア、ソマリアの大きい子供らは小さい子らの面倒をみていた。やがて、彼等はそれぞれに地元の、ソマリア=コミュニティーによってアパート見つけてもらって巣立っていった。
元々この地を夫妻が選んだのも、近くに海岸があるためである。二人はこの海の癒しの力を利用して、難民を保護するのに必要な憩いの場として選んだ。またボストン郊外のこの地を選んだもう一つの理由として、ボストンには様々な難民がたどり着き、難民コミュニティーが多々あるためで、二人はここで、戦争孤児の癒しのコミュニティーを打ち立てたいと願って、ここ
イプスウィッチに、築277年の古い家を購入してやってきた。
最初の7年間は主に、両親を戦争で殺された10代の、べトナム、ハイチ、エルサルバドル、キューバ、アルバニアの若者が多かった。二人の再婚当初、これらの青少年11人と暮らした
という。彼等は、国連や米国国務省の難民弁務救済プログラムより
ハウス=オブ=ピースへ送られてきた。多くのここで地元の高校へ通わせてもらって卒業していった。ある二人のベトナムの若者は、さらにっここから博士号を取得するにいたる。
また年少のものは、地元のケープアン=ヴァルドーフ、シュタイナー学校に通っていた。また多くのものがカソリックの奉仕団体に支えられてきた。常時8人近くの難民家族がハウス=オ
ブ=ピースに身を寄せる。中にはコソボから、3世代家族がここにお世話になっていた時もあった。多くはいきなりやってくることが多い。2日前に知らせがあるなんていうのは、まだましだそうだ。ましてや、その多くのものが24時間体勢の医療サポートを必要としている。地元の病院へ行くのは日常で、肺炎、脱水症なんてのはよくあることだそうだ。
「よく人々は、私たちがどうやってここをまかなっていくのか聞いてくるが、私たちがここをまかなっているのではない、地元や国中の人、あるいは諸外国からも善意の寄付がよせられ、
なんと子やっている。アップルトン農園から新鮮な野菜の寄付が、そして近くの魚市場から新鮮な魚介類が、そしてケープアン=ウオールドフ学校から連日のように衣類がおくられ、多く
の教会が資金集めをしてくれます」とジョンは、夫人のケリーを伴って話してくれた。またケリーの夫人の言葉をかりれば、
「イプスウィッチという街全体で私たちの仕事や人々をサポートしてくれて、本当に助かっています。苦難の旅の末、ハウス=オブ=ピース二やってきた人々が癒えていく過程に、こうした人々の善意があるからでしょう」そして、シューシャード夫妻を含め、ここの理事会のメンバーたちは皆無給で奉仕している。そして、そうした活動にドイツ、イタリア、日本、マレーシアの若者がボランテイアにやってくる。
二人の出会い
彼等は1980年、ジョンが7人の仲間とともに起こしたプラウシュアー行動の最初の地、ペンシルバニア州でであった。ジェネラル=エレクトリック社にハンマーを持って侵入し、二つの核弾頭容器に血をたらし、平和の祈りを捧げ、逮捕された。10種以上もの重罪の刑で投獄された。
一方、ケリーは同じペンシルバニア州で発達障害児童と成人のキャンプヒル=コミュニティーにて15年暮らしていた。お二人とも、平和への希求を分かち合ってきた。二人は口をそろえていう、「暴力の行使は非人間的だ」と。
ジョンは「戦争という暴力は、我々の人間性を否定し、破壊します」という。彼は、1965年米国海兵隊がベトナムのダナンに侵攻した時、合法的な自衛権の行使に反するとして、上司命令を退け除隊した経験持ち、イリノイ州出身でバーモントで弁護士をやっていた。前妻とのあいだに3人の子供、14人の孫があり、カナダ、モントリオール生まれボストン郊外で育ったケリーも2児の母親で、孫が一人いた。再婚同士で長い間の友情の末、結ばれハウス=オブ=ピースを二人ではじめることになる。二人のユニークで山谷に満ちた背景を駆使しても、このハウス=オブ=ピースをはじめることは、決して容易いことではなかったろう。
ケリー夫人いわく「彼等の話す戦争の悲惨さは、それはそれはこちらの想像を超えたもので、戦争の惨さを知っていたつもりだったけど、その傷跡や戦争からくる心の痛みや、その破壊力の恐ろしさには、私たちが知る由もありませんでした。一番辛いのは、特にそれらの話をお世話をしている人から聞くのは忍びがたいです。彼等は激情を抱えてやってきますから」と語る
彼女の姿がそこにあった。
以下講演のチラシとシューシャードご夫妻のプロフィールを紹介します。
世界の人々と横につながっていきませんか!
「アメリカの平和運動と海外から見た日本国憲法9条」
アメリカの平和運動家、ジョン&ケリー・シューシャード夫妻、ネイティブ・アメリカン(ワンパノグ族)のメディスンマンの家庭に生まれたアーティスト、ラモナ・ピーター女史が、4人の日本山妙本寺の僧侶の方々(そのうち3人はアメリカ人)と一緒に「平和の祈り」のために来日されました。そして皆さんは、八ヶ岳にも足を運んでくれることになりました。シューシャード夫妻とラモナさん、そして日本山のお坊さんのことを少し紹介します。ジョン(1939年生まれ)とケリーは二人で1990年に、世界各地に於ける戦争、紛争によって心身の被害に遭われた人々や、障害者の憩いの家「ハウス・オブ・ピース」を始められました。15年の間にお世話をした人は400を
超え、その出身国は30カ国にも渡ります。その活動の傍ら、ご夫妻は人々の意識を高め、戦争に向かう諸政策を平和なものへと転換するよう多くの活動に参加しています。ラモナさんは、北米ワンパノグ族のメディスンマンの娘で、ワンパノグ族の伝統的壷や瓶を復活させているアーティストです。ワンパノグ族はメイフラワー号が最初にやってきたプリモス近辺に古くから暮らす北米インディアンの部族で、彼らの祖先がヨーロッパからの客人に冬を越せないでいる時、食べ物を与えたいわば今のアメリカ人の祖先の命の恩人でした。彼らは、同行する日本
山の僧侶のかたがたと一緒に「平和の祈り」の行脚に日本に来ました。
こうした方々をお迎えしてアメリカでの平和運動についての講演会と交流会を開きます。9条がいかに貴重なものか、失ってから悟っても遅すぎます。世界初の原子爆弾による戦禍を体験
した日本には、世界に対して独特の使命があるように思えます。憲法9条が改変されようとしている今日、世界的視野に立って、改めて9条の意義そして平和について考え、行動すること
は、とても重要な課題です。世界の平和運動の息吹きを貴方も感じ、平和への意思を新たにしてみませんか。どうぞ奮ってご参加ください。
日時:2007年5月30日(水)6:30〜9:3
場所:小渕沢生涯学習センター:研修室
共催:風の輪学校・ルン
市民ピースネット山梨 北杜未来ネット
資料代:500円
ジョン&ケリー・シューシャード夫妻のプロフィール
ジョン(1939年生まれ)とケリーは二人で1990年に、世界各地に於ける戦争、紛争によって心身の被害に遭われた人々や、障害者の憩いの場キャンプヒル共同体として「ハウス=オブ
=ピース」を自宅を開放して始められました。15年の間に、お世話をした人400を超え、その出身国は30にも渡ります。アメリカで暮らしていけるよう、生活のめどが立つよう面倒をみてきました。
「ハウス=オブ=ピース」を日々運営していくかたわら、ご夫妻は人々の意識を高め、戦争に向かう諸政策を平和なものへと転換するよう、多くの活動に参加しています。とくにケリーは女性が公の場で証人となるネットワーク「ウーマン=ウイーピング」を始めました.彼女らは喪服に身を包み、生命を断たれた子供達を象徴する人形を抱きかかえて、マスコミでは殆どとりあげられることのない、戦争の戦慄すべき暴力に子供らを失った世界中の紛争地域の何十万もの母親たちの悲しみを訴えていきます。一方ジョンは戦地ベトナムへ送り込まれる前年の1965
年海兵隊より除隊し、以来「平和のための帰還兵」活動に意欲的に取り組んでおられます。
1980年ジョンは、他の7人の敬虔なるキリスト教徒とともに、最初のプラウシュアー行動も起こしました。これは非暴力直接行動です。旧約聖書の一節「汝、武器を鋤きに鋳変えよ、(中略)国家は再び戦争の過ちを繰り返してはならない」との言葉を元に、ペンシルバニア州の核兵器工場へ逮捕、投獄を覚悟でハンマーを持って侵入し、核弾頭の容器を使用不可にさせるほどのダメージを与えました。そして裁判によって合州国国家を訴え、核兵器の持つ真の恐ろしさと、核兵器廃絶がいかに必要なものであるかを説吃でけています。1983年にも同様のプラウシュアー行動をおこし、これらがその後のアメリカ中の70以上にも上るプラウシャー運動へと広がりを見せていきます。
新聞記事
"Peace is the Word"
North Shore Sunday 紙 2004年12月12日掲載
Frank Carini 記者
意訳
古い漁港の街にて、世界中の紛争地域の難民に憩いの場を与え続け14年、ハウスオブ=ピースの活動ますます勢いづく。両親を目の前で失い、人々が銃殺されるのを目撃し、命からがら逃げてきた子供たちや家族がたどり着くのは、ここイプスウィッチにあるHouse of Peace ハウス=オブ=ピース。ほとんどのものが言葉さえ失い、平和を渇望してここへやってくる。ハ
ウス=オブ=ピースは丘の上にある大きな白い家で、20の部屋をもち、1990年より世界中の紛争や戦争で全てを失った難民を受け入れてきた。創立者のケリー、ジョン=シューシャード夫妻は、これまでにスーダン、エチオピア、アフガニスタン、コソボ、ザンビア、などなど40の地域国を数える。ジョンの話では、「ほとんどのものがここにやってくる前に、人が考えられないほどのトラウマを背負ってくる。両親が目の前で暗殺された子もいれば、銃撃戦を経験してきた者もいる。全てを失い、あらゆる苦しみを経て、ここにやってくるもを受け入れてきました」という戦争孤児や家族たちが、ここに平和を求めてやってきます。あるものは、木から葉が落ちて冬になることを見たこともなかったり、ほとんどのものが、蛇口をひねれば水が出ることや、スイッチをつければ電気がつくことなど、体験もしたこともなく、電気をつけると顔を背ける子もいるとか。
ここ4エーカー(4600坪)のハウス=オブ=ピースで文字どおり暖かいもてなしを受け、安全を確保されて、衣食住をあたえられ、数週間から数カ月の間の、驚くほどわずかな期間で、みな自活できるようになり、これからアメリカで何とか暮らしていけるよう、方向付けのお世話までしてくれる。
ある時は、ソマリアの難民家族が2、4、6、9、12歳のこどもを引きつれ14年間ケニア国境内の難民キャンプで死線をさまよいながら、ここたどり着いた。そのすぐ後には、ボストンのストリートを50時間不眠でさまよっていたボスニアからの5人家族がここで保護された。その歳のハウス=オブ=ピースでの感謝祭の夕餉は50人に膨らんだという。ふた家族の父親は庭で落ち葉集めをし、母親たちは食事の用意、後片付けを手伝い、ボスニア、ソマリアの大きい子供らは小さい子らの面倒をみていた。やがて、彼等はそれぞれに地元の、ソマリア=コミュニティーによってアパート見つけてもらって巣立っていった。
元々この地を夫妻が選んだのも、近くに海岸があるためである。二人はこの海の癒しの力を利用して、難民を保護するのに必要な憩いの場として選んだ。またボストン郊外のこの地を選んだもう一つの理由として、ボストンには様々な難民がたどり着き、難民コミュニティーが多々あるためで、二人はここで、戦争孤児の癒しのコミュニティーを打ち立てたいと願って、ここ
イプスウィッチに、築277年の古い家を購入してやってきた。
最初の7年間は主に、両親を戦争で殺された10代の、べトナム、ハイチ、エルサルバドル、キューバ、アルバニアの若者が多かった。二人の再婚当初、これらの青少年11人と暮らした
という。彼等は、国連や米国国務省の難民弁務救済プログラムより
ハウス=オブ=ピースへ送られてきた。多くのここで地元の高校へ通わせてもらって卒業していった。ある二人のベトナムの若者は、さらにっここから博士号を取得するにいたる。
また年少のものは、地元のケープアン=ヴァルドーフ、シュタイナー学校に通っていた。また多くのものがカソリックの奉仕団体に支えられてきた。常時8人近くの難民家族がハウス=オ
ブ=ピースに身を寄せる。中にはコソボから、3世代家族がここにお世話になっていた時もあった。多くはいきなりやってくることが多い。2日前に知らせがあるなんていうのは、まだましだそうだ。ましてや、その多くのものが24時間体勢の医療サポートを必要としている。地元の病院へ行くのは日常で、肺炎、脱水症なんてのはよくあることだそうだ。
「よく人々は、私たちがどうやってここをまかなっていくのか聞いてくるが、私たちがここをまかなっているのではない、地元や国中の人、あるいは諸外国からも善意の寄付がよせられ、
なんと子やっている。アップルトン農園から新鮮な野菜の寄付が、そして近くの魚市場から新鮮な魚介類が、そしてケープアン=ウオールドフ学校から連日のように衣類がおくられ、多く
の教会が資金集めをしてくれます」とジョンは、夫人のケリーを伴って話してくれた。またケリーの夫人の言葉をかりれば、
「イプスウィッチという街全体で私たちの仕事や人々をサポートしてくれて、本当に助かっています。苦難の旅の末、ハウス=オブ=ピース二やってきた人々が癒えていく過程に、こうした人々の善意があるからでしょう」そして、シューシャード夫妻を含め、ここの理事会のメンバーたちは皆無給で奉仕している。そして、そうした活動にドイツ、イタリア、日本、マレーシアの若者がボランテイアにやってくる。
二人の出会い
彼等は1980年、ジョンが7人の仲間とともに起こしたプラウシュアー行動の最初の地、ペンシルバニア州でであった。ジェネラル=エレクトリック社にハンマーを持って侵入し、二つの核弾頭容器に血をたらし、平和の祈りを捧げ、逮捕された。10種以上もの重罪の刑で投獄された。
一方、ケリーは同じペンシルバニア州で発達障害児童と成人のキャンプヒル=コミュニティーにて15年暮らしていた。お二人とも、平和への希求を分かち合ってきた。二人は口をそろえていう、「暴力の行使は非人間的だ」と。
ジョンは「戦争という暴力は、我々の人間性を否定し、破壊します」という。彼は、1965年米国海兵隊がベトナムのダナンに侵攻した時、合法的な自衛権の行使に反するとして、上司命令を退け除隊した経験持ち、イリノイ州出身でバーモントで弁護士をやっていた。前妻とのあいだに3人の子供、14人の孫があり、カナダ、モントリオール生まれボストン郊外で育ったケリーも2児の母親で、孫が一人いた。再婚同士で長い間の友情の末、結ばれハウス=オブ=ピースを二人ではじめることになる。二人のユニークで山谷に満ちた背景を駆使しても、このハウス=オブ=ピースをはじめることは、決して容易いことではなかったろう。
ケリー夫人いわく「彼等の話す戦争の悲惨さは、それはそれはこちらの想像を超えたもので、戦争の惨さを知っていたつもりだったけど、その傷跡や戦争からくる心の痛みや、その破壊力の恐ろしさには、私たちが知る由もありませんでした。一番辛いのは、特にそれらの話をお世話をしている人から聞くのは忍びがたいです。彼等は激情を抱えてやってきますから」と語る
彼女の姿がそこにあった。
by halunet
| 2007-05-17 18:15
| 憲法