2012年 02月 17日
福島と沖縄/戦争や汚染された大地や空気や水などではなく、自然の恵みいっぱいの平和な日々を残そう |
お待たせしました!
角野さんの福島ルポにつづいて、福島と沖縄をつなぐもの<沖縄編>がとどきましたので掲載します。実際に短期間で一気に二つのホットスポットをつないだ貴重なレポートです。
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沖縄の現実
福島と沖縄をつなぐもの(2)
1、那覇は、どんより曇って肌寒かった。今年は大陸の冷たい高気圧の張り出しが強く、沖縄は南の高気圧とのせめぎあいの場になっていて、私のいた1月中旬の1週間はずっと天気が悪かった。
高速バスで本島北部の町名護市へ向かった。チケット売り場が無く乗る時に乗車口で[整理券をお取り下さい]に懐かしさを感じ、バスストップが高速道路上にほとんどなく、インターチェンジのゲートを通って、いったん一般道に出て、そこそこ車の通るところのバス停で乗降しまた同じ道を通って高速道にはいるという親切な(?)システムには驚いた。それはともかく、今回私の目的は、名護市辺野古、東村高江を訪れ、そこの空気を吸い地元の人とふれあうことだ。
2、1995年9月に起きた米兵3人による小学生の少女拉致強姦事件によって沖縄の人々は、それまでの度重なる米兵による犯罪や軍用機事故等に対する怒りを一気に爆発させた。10月に開催された総決起集会には約80000人が集まった。(全島では10万人)当時沖縄の人口は120万人と言われていたから、赤ん坊まで含めて、1割近くの人が集まったまさに全島挙げての抗議だった。
これに驚きあわてた日米両政府は、沖縄に関する日米特別行動委員会(通称SACO)を作り、沖縄県民をなだめようと、基地の縮小、整理を伴う幾つかの提案をしてきた。その中のメインが、世界で一番危険な軍事基地と言われる普天間飛行場の返還であり、本島北部訓練場の半分近くの返還だ。その中身をもう少し詳しく見てみよう。
3、普天間は海兵隊基地だ。海兵隊と言うのはいわば切り込部隊であり、特殊任務の遂行部隊だ。しかし弾薬庫が無く(余りに都市部にあるのでおけないので嘉手納で積み込まねばならない)また訓練基地もないのでもっとも機動性を必要とする部隊としては大きな問題を抱えていた。
「移設」先に選んだのは名護市東部の辺野古だ。(キャンプ、シュワブ)ここは訓練施設や上陸訓練用の浜辺、また巨大な辺野古弾薬庫を持ち、また北部訓練場にも近い。そこへ飛行場を作ればどうなるか推察はたやすい。簡単に言えば、老朽化し機能性に劣る、旧式の図体の大きい車を、最新式の機能を備えたコンパクトな新車にのりかえるということだ。沖縄の人々の基地負担の軽減と言いながら実は、より合理化された新しい軍事基地の建設なのだ。それを日本政府が私達の税金で造るということだ。
4、沖縄本島北部には人の手の入らない亜熱帯系の広大な密林があり、そのうちのかなりの部分が米軍の訓練場だ。その約半分、北側部分を返還するという。その代りに返還地域にあったヘリパッド(直径75m位の平らなヘリコプターの離着陸用のヘリポート)を 高江地区(高江の集落をぐるりと取り巻くように)に6カ所作りさらに海から陸への上陸訓練のための水域と土地を新たに提供することを提案してきた。
北部訓練場は、フェンスも何もない密林地帯で、1960年代~70年代にかけて、ベトナム戦争のころベトナムを模しての軍事訓練や、サバイバル訓練が行われた。近年焦点がイラクやアフガンなど砂漠地帯に移ってきたことと関係して、そもそも不要になってきたのだ。ここでも負担軽減を言いながら、そこでの人々の暮らしを無視し新たなヘリの訓練場を作ろうとしているのだ。
5、ジュゴンの北限の餌場と言われ、豊かな海の幸に恵まれた辺野古の海を埋め立て、戦争と言う、人殺しと最も激しい自然破壊、それの手段である軍事基地を作る。またノグチゲラやヤンバルクイナなど貴重な生物の生息する北部の自然の破壊と高江地区の上空を日々爆音を響かせてヘリが飛ぶという日常生活。それに対して地元の人達は当然にも反対の声を上げ長年にわたって抵抗してきた。私は、その「今」に身を置きたいと思ったのだ。
6、辺野古のバス停のひとつ手前で降り、キヤンプシュワブのフェンスに沿って歩くと基地の境界の海岸に出た。フェンスにはここを訪れた人の平和の願いを込めたリボンが無数に結んである。それを二人の若い米兵が、黙々と、カッターで切りポケットに入れるという作業を繰り返していた。
近くにいた人が「これは今年に入っては初めてだ」とか「懲罰でも、くらったんじゃないか」と話していたが言葉が分からないのかただひたすらリボンをはずしていた。
フェンスから辺野古漁港を挟んで向かい側歩いて数分の静かな入り江の防波堤の上に、基地建設反対派の座り込みテントはあった。場所は移動しているが、それは、はや10年を超えている。中に入ると受付と本や資料の置いてあるコーナー。畳1枚ほどの机と椅子。そして炭のはいった半分に切ったドラム缶(寒いので火鉢代わり)と4つの椅子。壁には写真がはりつけてある。
中にはオッサン、おばさん、おばあさんがいた。私が入って行っても特に反応なし。受付を済ませ、椅子に座って、困ったどうしようかと思っていると、おばあさんが話し掛けてきてくれた。それから2時間近くいろんな話をした。
7、辺野古沖を埋め立て、ヘリ基地を作るという日米合意の後、2004年から2005年にかけて沖縄防衛施設局(現沖縄防衛局)による、埋め立てのためのボウリング調査が行われた。小さな2人乗りのカヌーでの阻止行動にたいして大型船が体当たりしてくる。(事前にひっくり返ってもまた起き上がる練習を繰り返ししたそうだ。もちろん当時70ちかい?このおばあさんも)丁度盆踊りのやぐらのような足場が、海の上に作られてからは朝から夕方までただひたすら板の上に寝転ぶという立てこもり。水中でのくい打ちに対しては、相手の体には一切触れず、杭とハンマーの間に手を入れるのだそうだ。もちろんこのおばあさんも、スキューバダイビングの資格を取って潜ったという。60代70代が、カヌー班小型船舶での説得班、ぷかぷか班(海に漂って抵抗する)等々工夫を凝らして闘ったという。
2007年安倍政権の時自衛艦「ぶんご」が差し向けられ、大量のダイバーが動員され、海中に様々な設備が設置された。その時多くのサンゴが破壊されたという。そののち台風を理由に足場は撤去され今はない。おばあさんの話は続く「あのベトナム戦争の頃ここは前線基地だった。修理に戻ってきた戦車のキャタビラには肉片がついていた。もう戦争に加担するのは嫌だ」と。それでも「私達は一切暴力は使わず、しかし徹底的に抵抗する。この海は私達の宝だから」と話す顔は輝いていた。
8、辺野古は、小さな静かな漁村だった。環境アセスのための調査を請け負ったのは本土の調査会社、さらにその下請けによって集められた労働者、辺野古でも日給5万円で船がチャーターされ、高額で人を集めたそうだ。自動車を3台買ったとか立派な家を立てた人もいるそうだ。だから辺野古には賛成派が多い。しかし下請けの人達とじっくり話すと、「自分たちも辛い。施設局の職員が双眼鏡で見てるからね」(キャンプシュワブの小高い丘にその建物はあった。)町でバッタリ会うときなどは、深ゝと頭を下げる場面も。
おばあさんは言う「あの人たちも可哀そう。私達も辛いけど自分の意志で行動している。あの人たちはそうでないから。」「米兵も同じ、意味も分からず戦争に行かされるのだから」「海での攻防はもうやりたくない。でも基地は要らない」
埼玉の高校生が修学旅行でテント小屋に来て説明を聞いていた。
9、午後静かな時間が流れる。サンゴ礁に囲まれた大浦湾はとても美しい。防波堤の突端でただ海を眺める。その美しさが胸にしみる。「海は宝」「海があれば生きていける」と言う言葉が思い浮かぶ。人間が、そして多くの生き物が命をつないできたこの海を汚してはいけない。理屈でなく肌でそう思う。ここで暮らすおじぃ、おばぁの思いはこれなんだ。
10、帰りはおばさんに送ってもらった。昨年11月福島から来て今年の夏までいるという。避難してきたのかと聞くとそうではないという。3,11以前から辺野古にいく計画があって、原発でむしろ行くべきか迷ったが、既定方針通り来たという。「原発も基地も構図は同じなんだよね」と言う。
名護の街中、立派な公設市場があった。しかしなんとなくうす暗く人が少ない。「これも交付金で立てたけどダメなのよ。建物は大きく立派だけど駐車場が少なすぎる」「建てる業者にすれば駐車場は安く作れてお金にならないからね」と言う。これが交付金の実態か。お金をばらまき口を閉じさせ、既成事実を作り、さらにばらまき。やがて、それが無いとやっていけない体質に作られてしまう。「麻薬とおなじだね」と言う。しかもそれすら一般市民は恩恵に浴さない現実が目の前にある。
11、辺野古からさらに数十キロ海岸線を北上した、ほとんど人の手の入らない自然豊かなところに高江はある。午前5時50分名護バスステーション発だ。次は午後までない。乗客は3人、内2人は間もなく降り、高江までの50分ほどは私一人。(あとで聞いた話では、乗客を運ぶのでなく、バスと運転手を高江に運ぶのが目的とのこと。7時ごろから高江から各地への通学や通勤の足として)
7時前はまだ薄暗く方角はまるでわからない。もちろん人は誰もいない。見当をつけて歩きだす。やがて明るくなる。周りはうっそうと木が茂った山の中。ここらが米軍の訓練場なんだと思いながら、さらに歩く。どうやら道を間違えたようだ。山を一つ越え下りになったところで、引返した。
バス停に戻ると小さな売店がある。そこで聞いて反対に15分歩く。ようやくゲート前のテントに着く。狭い。男の人が2人いた。中に入るとチラシをすっと渡された。話しかける雰囲気でもかけられるでもなかった。
しばらくして差し入れの車が来た。冷えたおにぎりと大根の煮たもの。泊まり込みなのだ。その人の車で次のテント小屋に。着くなり、どこからきた?なにをしている?いつ来た?等など根ほり葉ほり聞いてくる。そして「悪かったね。支援者のフリをして内情を調べに来るのが結構いるの」と言う。それで分かった。最初のテントの妙な雰囲気が。
辺野古と違ってここは前線なんだ。来週にも沖縄防衛局が重機とでっかい拡声器を持って来るだろうとのこと。(実際次の週、局の職員が業者を連れて来て拡声器で退去をがなりたてたという。しかしゲートを開けずに守り抜いたという。)「米軍再編推進法で、米軍再編への協力度合いに応じて地方自治体に交付金を出すというアメとムチで地元は混乱している。」「沖縄全体のため我慢しろ」と言われたこともあると。それは逆だろうと思う。少数を犠牲にしての多数の幸せはない。少数の幸せが多数の幸せに繋がるんだと思う。ここの人はただ黙々と耐えている。そう感じた。
12、東村高江地区は人口150人(内子供は2割)の小さな集落だ。豊かな自然を求めて移住してきた人もいる。この集落をぐるりと取り囲むようにヘリパッドを作るという。まるで集落を攻撃目標として訓練するかに私には思える。しかも奇妙なことにそのうち2つはくっつけて作るという。
政府はいまだ公式にはみとめていないが、ここに「オスプレイ」が配備されるのは公然の事実となっている。木を切り倒し滑走路を造り、ヘリよりさらに騒音の大きい、危険なモノが住宅の上を毎日朝から夜遅くまで、低空で爆音を響かせ縦横無尽に飛び回る。ちょっと想像してみよう。こんなことがあっていいのだろうか。
13、「オスプレイ」の簡単な紹介。垂直、水平両方の離着陸及び飛行可能な輸送機。航続距離はヘリの5倍、積載量3倍。しかし安全性に問題が多く、アメリカでは「空飛ぶ棺桶」「未亡人製造機」と呼ばれているという。
14、帰りはまたおばさんに送ってもらった。行きは暗くて見えなかった豊かな森がよく見える。亜熱帯系の木は上から見るとブロッコリーの少しぼこぼこした蕾のように見えるとこから「ブロッコリーの森」と呼ばれて親しまれているそうな。
いただいたパンフに次の言葉が載っていた。「インディアンやネイティブアメリカンと呼ばれるアメリカ先住民は“何かを決める時、7代先のことを考えてきめる”と言います。自分たちが生きる今だけでなくずっと先の未来の子供たちの事を考えて行動するのです。私達の行動や選択のひとつひとつが未来の子供たちの暮らしをかたち作っています。子供たちは私達から何を受け継ぐのでしょうか?出来れば戦争や汚染された大地や空気や水などではなく、自然の恵みいっぱいの平和な日々であってほしいと願わずにはいられません。」
15、普天間のある宜野湾市に行った。基地に食い込むように佐喜眞美術館がある。丸木位里 俊夫妻の絵画を中心に展示してある。正面にあるのが畳20畳はある「沖縄戦の図だ。少し離れたところに小さな椅子が2つ置いてある。そこに座ってみる。まるで地獄絵図のようで、じっと見つめるのは正直気分がよくない。丸木夫妻は「沖縄戦の図」の中でガイコツの山の中に自分たちの肖像画を描きこんだという。この絵は死者たちの、生ける者たちへの、命を大切にしないモノたちへの、告発なのだ。
見ることに疲れ、帰ろうとすると、この美術館には屋上があるという。そこから普天間基地が見渡せる。この広大な軍事基地は一体何を生みだすのか。絶えることのない戦争。戦争は起こるのではない。起こすのである。それによって得をするモノたちが、必ずいる。それを私達は冷徹に見抜かねばならない。犠牲になるのは兵士であり、まさにそこにいる人々だ。彼らが得をするわけでは決してない。
原発を作って得をし、再稼働、海外での原発建設で得をするモノたち。そこで犠牲になる原発労働者とそこにいる人々。そう考えると、この下にいる死者たちの告発との余りにも落差のある現実に 無性に腹が立った。普天間軍事基地をどこに「移転」するかではない。基地はいらないのだ。
16、夕方那覇についた。そびえ立つ沖縄県庁、向かいに建つ巨大な商業ビル。そこからまっすぐに延びる、国際通り。そこはまっすぐに歩けないほど観光客で賑わっていた。 (角野敬治)
付記
伊波洋一氏が宜野湾市長選に敗北。悔しい。仲井眞沖縄県知事は「民意だ」と言い、政府は「重く受け止める」と。しかし・・・。2007年に作られた、米軍再編推進法で、再編に協力したところには交付金を出し、抵抗した自治体には出さないという露骨なアメとムチで自治体や市民を苦しめ、選挙においては、たとえば2010年の、名護市長選挙では期日前投票が40%を超えるという異常事態。企業ぐるみ、施設ぐるみ、バスでの送り迎えが行われた。(もちろんそれがすべてではないが。)今回はまだ定かではないが推察は容易だ。さらにあの、真部防衛局長の「講話」問題。私はその奥で彼らが何をしたか、その闇こそ問題だと思っている。むしろ「講話」がその闇を隠してしまった気がする。そしてまるでタイミングを測ったような、、海兵隊のグアムその他への移転と普天間返還の分離の発表。マスコミによる、普天間固定化の恐れなどと言う宣伝。辺野古移転を認めないと普天間は固定するという宜野湾市民への恫喝。(佐喜眞新市長はかつて、辺野古への移転を主張する急先鋒だった。)この現実で果たしてわずか900票の差が民意と言えるのだろうか。
角野さんの福島ルポにつづいて、福島と沖縄をつなぐもの<沖縄編>がとどきましたので掲載します。実際に短期間で一気に二つのホットスポットをつないだ貴重なレポートです。
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沖縄の現実
福島と沖縄をつなぐもの(2)
1、那覇は、どんより曇って肌寒かった。今年は大陸の冷たい高気圧の張り出しが強く、沖縄は南の高気圧とのせめぎあいの場になっていて、私のいた1月中旬の1週間はずっと天気が悪かった。
高速バスで本島北部の町名護市へ向かった。チケット売り場が無く乗る時に乗車口で[整理券をお取り下さい]に懐かしさを感じ、バスストップが高速道路上にほとんどなく、インターチェンジのゲートを通って、いったん一般道に出て、そこそこ車の通るところのバス停で乗降しまた同じ道を通って高速道にはいるという親切な(?)システムには驚いた。それはともかく、今回私の目的は、名護市辺野古、東村高江を訪れ、そこの空気を吸い地元の人とふれあうことだ。
2、1995年9月に起きた米兵3人による小学生の少女拉致強姦事件によって沖縄の人々は、それまでの度重なる米兵による犯罪や軍用機事故等に対する怒りを一気に爆発させた。10月に開催された総決起集会には約80000人が集まった。(全島では10万人)当時沖縄の人口は120万人と言われていたから、赤ん坊まで含めて、1割近くの人が集まったまさに全島挙げての抗議だった。
これに驚きあわてた日米両政府は、沖縄に関する日米特別行動委員会(通称SACO)を作り、沖縄県民をなだめようと、基地の縮小、整理を伴う幾つかの提案をしてきた。その中のメインが、世界で一番危険な軍事基地と言われる普天間飛行場の返還であり、本島北部訓練場の半分近くの返還だ。その中身をもう少し詳しく見てみよう。
3、普天間は海兵隊基地だ。海兵隊と言うのはいわば切り込部隊であり、特殊任務の遂行部隊だ。しかし弾薬庫が無く(余りに都市部にあるのでおけないので嘉手納で積み込まねばならない)また訓練基地もないのでもっとも機動性を必要とする部隊としては大きな問題を抱えていた。
「移設」先に選んだのは名護市東部の辺野古だ。(キャンプ、シュワブ)ここは訓練施設や上陸訓練用の浜辺、また巨大な辺野古弾薬庫を持ち、また北部訓練場にも近い。そこへ飛行場を作ればどうなるか推察はたやすい。簡単に言えば、老朽化し機能性に劣る、旧式の図体の大きい車を、最新式の機能を備えたコンパクトな新車にのりかえるということだ。沖縄の人々の基地負担の軽減と言いながら実は、より合理化された新しい軍事基地の建設なのだ。それを日本政府が私達の税金で造るということだ。
4、沖縄本島北部には人の手の入らない亜熱帯系の広大な密林があり、そのうちのかなりの部分が米軍の訓練場だ。その約半分、北側部分を返還するという。その代りに返還地域にあったヘリパッド(直径75m位の平らなヘリコプターの離着陸用のヘリポート)を 高江地区(高江の集落をぐるりと取り巻くように)に6カ所作りさらに海から陸への上陸訓練のための水域と土地を新たに提供することを提案してきた。
北部訓練場は、フェンスも何もない密林地帯で、1960年代~70年代にかけて、ベトナム戦争のころベトナムを模しての軍事訓練や、サバイバル訓練が行われた。近年焦点がイラクやアフガンなど砂漠地帯に移ってきたことと関係して、そもそも不要になってきたのだ。ここでも負担軽減を言いながら、そこでの人々の暮らしを無視し新たなヘリの訓練場を作ろうとしているのだ。
5、ジュゴンの北限の餌場と言われ、豊かな海の幸に恵まれた辺野古の海を埋め立て、戦争と言う、人殺しと最も激しい自然破壊、それの手段である軍事基地を作る。またノグチゲラやヤンバルクイナなど貴重な生物の生息する北部の自然の破壊と高江地区の上空を日々爆音を響かせてヘリが飛ぶという日常生活。それに対して地元の人達は当然にも反対の声を上げ長年にわたって抵抗してきた。私は、その「今」に身を置きたいと思ったのだ。
6、辺野古のバス停のひとつ手前で降り、キヤンプシュワブのフェンスに沿って歩くと基地の境界の海岸に出た。フェンスにはここを訪れた人の平和の願いを込めたリボンが無数に結んである。それを二人の若い米兵が、黙々と、カッターで切りポケットに入れるという作業を繰り返していた。
近くにいた人が「これは今年に入っては初めてだ」とか「懲罰でも、くらったんじゃないか」と話していたが言葉が分からないのかただひたすらリボンをはずしていた。
フェンスから辺野古漁港を挟んで向かい側歩いて数分の静かな入り江の防波堤の上に、基地建設反対派の座り込みテントはあった。場所は移動しているが、それは、はや10年を超えている。中に入ると受付と本や資料の置いてあるコーナー。畳1枚ほどの机と椅子。そして炭のはいった半分に切ったドラム缶(寒いので火鉢代わり)と4つの椅子。壁には写真がはりつけてある。
中にはオッサン、おばさん、おばあさんがいた。私が入って行っても特に反応なし。受付を済ませ、椅子に座って、困ったどうしようかと思っていると、おばあさんが話し掛けてきてくれた。それから2時間近くいろんな話をした。
7、辺野古沖を埋め立て、ヘリ基地を作るという日米合意の後、2004年から2005年にかけて沖縄防衛施設局(現沖縄防衛局)による、埋め立てのためのボウリング調査が行われた。小さな2人乗りのカヌーでの阻止行動にたいして大型船が体当たりしてくる。(事前にひっくり返ってもまた起き上がる練習を繰り返ししたそうだ。もちろん当時70ちかい?このおばあさんも)丁度盆踊りのやぐらのような足場が、海の上に作られてからは朝から夕方までただひたすら板の上に寝転ぶという立てこもり。水中でのくい打ちに対しては、相手の体には一切触れず、杭とハンマーの間に手を入れるのだそうだ。もちろんこのおばあさんも、スキューバダイビングの資格を取って潜ったという。60代70代が、カヌー班小型船舶での説得班、ぷかぷか班(海に漂って抵抗する)等々工夫を凝らして闘ったという。
2007年安倍政権の時自衛艦「ぶんご」が差し向けられ、大量のダイバーが動員され、海中に様々な設備が設置された。その時多くのサンゴが破壊されたという。そののち台風を理由に足場は撤去され今はない。おばあさんの話は続く「あのベトナム戦争の頃ここは前線基地だった。修理に戻ってきた戦車のキャタビラには肉片がついていた。もう戦争に加担するのは嫌だ」と。それでも「私達は一切暴力は使わず、しかし徹底的に抵抗する。この海は私達の宝だから」と話す顔は輝いていた。
8、辺野古は、小さな静かな漁村だった。環境アセスのための調査を請け負ったのは本土の調査会社、さらにその下請けによって集められた労働者、辺野古でも日給5万円で船がチャーターされ、高額で人を集めたそうだ。自動車を3台買ったとか立派な家を立てた人もいるそうだ。だから辺野古には賛成派が多い。しかし下請けの人達とじっくり話すと、「自分たちも辛い。施設局の職員が双眼鏡で見てるからね」(キャンプシュワブの小高い丘にその建物はあった。)町でバッタリ会うときなどは、深ゝと頭を下げる場面も。
おばあさんは言う「あの人たちも可哀そう。私達も辛いけど自分の意志で行動している。あの人たちはそうでないから。」「米兵も同じ、意味も分からず戦争に行かされるのだから」「海での攻防はもうやりたくない。でも基地は要らない」
9、午後静かな時間が流れる。サンゴ礁に囲まれた大浦湾はとても美しい。防波堤の突端でただ海を眺める。その美しさが胸にしみる。「海は宝」「海があれば生きていける」と言う言葉が思い浮かぶ。人間が、そして多くの生き物が命をつないできたこの海を汚してはいけない。理屈でなく肌でそう思う。ここで暮らすおじぃ、おばぁの思いはこれなんだ。
10、帰りはおばさんに送ってもらった。昨年11月福島から来て今年の夏までいるという。避難してきたのかと聞くとそうではないという。3,11以前から辺野古にいく計画があって、原発でむしろ行くべきか迷ったが、既定方針通り来たという。「原発も基地も構図は同じなんだよね」と言う。
名護の街中、立派な公設市場があった。しかしなんとなくうす暗く人が少ない。「これも交付金で立てたけどダメなのよ。建物は大きく立派だけど駐車場が少なすぎる」「建てる業者にすれば駐車場は安く作れてお金にならないからね」と言う。これが交付金の実態か。お金をばらまき口を閉じさせ、既成事実を作り、さらにばらまき。やがて、それが無いとやっていけない体質に作られてしまう。「麻薬とおなじだね」と言う。しかもそれすら一般市民は恩恵に浴さない現実が目の前にある。
11、辺野古からさらに数十キロ海岸線を北上した、ほとんど人の手の入らない自然豊かなところに高江はある。午前5時50分名護バスステーション発だ。次は午後までない。乗客は3人、内2人は間もなく降り、高江までの50分ほどは私一人。(あとで聞いた話では、乗客を運ぶのでなく、バスと運転手を高江に運ぶのが目的とのこと。7時ごろから高江から各地への通学や通勤の足として)
7時前はまだ薄暗く方角はまるでわからない。もちろん人は誰もいない。見当をつけて歩きだす。やがて明るくなる。周りはうっそうと木が茂った山の中。ここらが米軍の訓練場なんだと思いながら、さらに歩く。どうやら道を間違えたようだ。山を一つ越え下りになったところで、引返した。
バス停に戻ると小さな売店がある。そこで聞いて反対に15分歩く。ようやくゲート前のテントに着く。狭い。男の人が2人いた。中に入るとチラシをすっと渡された。話しかける雰囲気でもかけられるでもなかった。
しばらくして差し入れの車が来た。冷えたおにぎりと大根の煮たもの。泊まり込みなのだ。その人の車で次のテント小屋に。着くなり、どこからきた?なにをしている?いつ来た?等など根ほり葉ほり聞いてくる。そして「悪かったね。支援者のフリをして内情を調べに来るのが結構いるの」と言う。それで分かった。最初のテントの妙な雰囲気が。
辺野古と違ってここは前線なんだ。来週にも沖縄防衛局が重機とでっかい拡声器を持って来るだろうとのこと。(実際次の週、局の職員が業者を連れて来て拡声器で退去をがなりたてたという。しかしゲートを開けずに守り抜いたという。)「米軍再編推進法で、米軍再編への協力度合いに応じて地方自治体に交付金を出すというアメとムチで地元は混乱している。」「沖縄全体のため我慢しろ」と言われたこともあると。それは逆だろうと思う。少数を犠牲にしての多数の幸せはない。少数の幸せが多数の幸せに繋がるんだと思う。ここの人はただ黙々と耐えている。そう感じた。
12、東村高江地区は人口150人(内子供は2割)の小さな集落だ。豊かな自然を求めて移住してきた人もいる。この集落をぐるりと取り囲むようにヘリパッドを作るという。まるで集落を攻撃目標として訓練するかに私には思える。しかも奇妙なことにそのうち2つはくっつけて作るという。
政府はいまだ公式にはみとめていないが、ここに「オスプレイ」が配備されるのは公然の事実となっている。木を切り倒し滑走路を造り、ヘリよりさらに騒音の大きい、危険なモノが住宅の上を毎日朝から夜遅くまで、低空で爆音を響かせ縦横無尽に飛び回る。ちょっと想像してみよう。こんなことがあっていいのだろうか。
13、「オスプレイ」の簡単な紹介。垂直、水平両方の離着陸及び飛行可能な輸送機。航続距離はヘリの5倍、積載量3倍。しかし安全性に問題が多く、アメリカでは「空飛ぶ棺桶」「未亡人製造機」と呼ばれているという。
14、帰りはまたおばさんに送ってもらった。行きは暗くて見えなかった豊かな森がよく見える。亜熱帯系の木は上から見るとブロッコリーの少しぼこぼこした蕾のように見えるとこから「ブロッコリーの森」と呼ばれて親しまれているそうな。
いただいたパンフに次の言葉が載っていた。「インディアンやネイティブアメリカンと呼ばれるアメリカ先住民は“何かを決める時、7代先のことを考えてきめる”と言います。自分たちが生きる今だけでなくずっと先の未来の子供たちの事を考えて行動するのです。私達の行動や選択のひとつひとつが未来の子供たちの暮らしをかたち作っています。子供たちは私達から何を受け継ぐのでしょうか?出来れば戦争や汚染された大地や空気や水などではなく、自然の恵みいっぱいの平和な日々であってほしいと願わずにはいられません。」
15、普天間のある宜野湾市に行った。基地に食い込むように佐喜眞美術館がある。丸木位里 俊夫妻の絵画を中心に展示してある。正面にあるのが畳20畳はある「沖縄戦の図だ。少し離れたところに小さな椅子が2つ置いてある。そこに座ってみる。まるで地獄絵図のようで、じっと見つめるのは正直気分がよくない。丸木夫妻は「沖縄戦の図」の中でガイコツの山の中に自分たちの肖像画を描きこんだという。この絵は死者たちの、生ける者たちへの、命を大切にしないモノたちへの、告発なのだ。
見ることに疲れ、帰ろうとすると、この美術館には屋上があるという。そこから普天間基地が見渡せる。この広大な軍事基地は一体何を生みだすのか。絶えることのない戦争。戦争は起こるのではない。起こすのである。それによって得をするモノたちが、必ずいる。それを私達は冷徹に見抜かねばならない。犠牲になるのは兵士であり、まさにそこにいる人々だ。彼らが得をするわけでは決してない。
原発を作って得をし、再稼働、海外での原発建設で得をするモノたち。そこで犠牲になる原発労働者とそこにいる人々。そう考えると、この下にいる死者たちの告発との余りにも落差のある現実に 無性に腹が立った。普天間軍事基地をどこに「移転」するかではない。基地はいらないのだ。
16、夕方那覇についた。そびえ立つ沖縄県庁、向かいに建つ巨大な商業ビル。そこからまっすぐに延びる、国際通り。そこはまっすぐに歩けないほど観光客で賑わっていた。 (角野敬治)
付記
伊波洋一氏が宜野湾市長選に敗北。悔しい。仲井眞沖縄県知事は「民意だ」と言い、政府は「重く受け止める」と。しかし・・・。2007年に作られた、米軍再編推進法で、再編に協力したところには交付金を出し、抵抗した自治体には出さないという露骨なアメとムチで自治体や市民を苦しめ、選挙においては、たとえば2010年の、名護市長選挙では期日前投票が40%を超えるという異常事態。企業ぐるみ、施設ぐるみ、バスでの送り迎えが行われた。(もちろんそれがすべてではないが。)今回はまだ定かではないが推察は容易だ。さらにあの、真部防衛局長の「講話」問題。私はその奥で彼らが何をしたか、その闇こそ問題だと思っている。むしろ「講話」がその闇を隠してしまった気がする。そしてまるでタイミングを測ったような、、海兵隊のグアムその他への移転と普天間返還の分離の発表。マスコミによる、普天間固定化の恐れなどと言う宣伝。辺野古移転を認めないと普天間は固定するという宜野湾市民への恫喝。(佐喜眞新市長はかつて、辺野古への移転を主張する急先鋒だった。)この現実で果たしてわずか900票の差が民意と言えるのだろうか。
by halunet
| 2012-02-17 00:53
| 沖縄