2010年 08月 18日
世界が、「公正さ」や「愛」に価値を置かなくなったとき |
みなさま
山梨の久松です。甲府では、猛暑の中をいま「平和を願う山梨戦争展」が開催されています。昨年は、八ヶ岳で板垣雄三先生をお招きして、パレスチナ問題を考える「八ヶ岳板垣塾」という講座を6回にわたって開催してきましたが、今年は、もっと多くの人に、パレスチナの人々のことを考えてもらおうと戦争展に、パネルを展示させてもらいました。八ヶ岳でも展示をしようと思っています。そのパネルの内容をこのMLにも転載させてもらいました。ご高覧下されば、幸いです。
(戦争展は8月8日で終了しています。これは会場での展示に使われた文章です。)
パレスチナ問題の原点を考える
パレスチナ問題は、本当に難しいのか?
イスラエルが建国されて、60年余。第二次大戦後の世界の不条理の中心は、パレスチナにあったと言っても過言ではないでしょう。2009年のイスラエルによるガザ攻撃は、皆さんの
記憶にも新しいと思います。極く最近では、ガザ救援の国際的ボランテイア組織、フリー・ガザ運動の救援船が、公海で襲撃され、乗組員が、イスラエル政府によって殺害されたり拉致されたりしています。パレスチナの地では、イスラエル軍による『民族浄化(エスニック・クレンジング)』の嵐が吹き荒れ、パレスチナの人々は、かつてないほどの悲惨な状況に追いやられています。今でもイスラエルーパレスチナ問題に対して、「暴力の連鎖」「どっちもどっち」といった形容句を被せる人は、その人の見識を疑われても仕方ないでしょう。
錯綜を極めるパレスチナ問題ですが、そもそもの原点を考えようという動きが出てきています。「民なき土地に、土地なき民を」というのが、シオニストたちが世界に広めたイスラエル建国神話ですが、事実は決してそうではありませんでした。イスラエル建国から60余年が過ぎた今、パレスチナ人たちが、「ナクバ(大災厄)」と呼ぶ、パレスチナ人の大量虐殺と追放が、クローズアップされています。始まりの中に現在が隠されていると思いますので、このパネル展示でも、イスラエル建国の前後に焦点を当てたいと思います。なんといっても、イスラエルーパレスチナ紛争は、一地域紛争といったものではなく、過去の世界戦争や世界の未来の命運と深く関わっているのですから、わたしたちは、何が『真実』なのかを見極めなければならなりません。そうはいっても今やパレスチナ紛争に関しての資料は、膨大なものがあります。このパネル展示は、その一端をご紹介できるにすぎません。関連書籍なども展示いたしましたので、この展示が、パレスチナ問題に対するみなさまの関心を深める契機になれば、嬉しいです。
八ヶ岳板垣塾有志 製作者一同
パレスチナ問題の具体化は、第一次世界大戦にあり
パレスチナ問題は、1880年代のヨーロッパにおけるユダヤ人差別から起きたユダヤ人の「シオニズム」運動に始まりますが、パレスチナ分割が、問題になり出したのは、第一次世界大戦のことでした。
第一次世界大戦時に連合国側のイギリスは、同盟国側(ドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリア)との戦争に勝とうと複数の国と取り交わした2つの秘密協定と1つの宣言文が重要になります。
1915年、「フサインーマクマホン協定」:第一次大戦、ドイツとの同盟を結んでいたオスマン・トルコに対して、武装蜂起をアラブ人住民に呼びかけ、その見返りとして、アラブ人居
住区の独立を保障した。
1916年「サイクス・ピコ協定」:ロシア・フランス・イギリスで結ばれたオスマン・トルコ分割の秘密協定
1917年、「バルフォア宣言」:戦費を賄うために、英国は、ユダヤ人金融家ロスチャイルド家に資金提供を求め、シオニズム運動に賛同し、パレスチナにユダヤ人居住地の建設を支持
する。
日本は、パレスチナ問題については全く手を汚していないかといえば、そうとはいえないのです。1920年、第一次世界大戦の戦勝国が集まって、中東の線引きを決める「サンレモ会議」というものが開かれます。日本は、イラク戦争で、アメリカのイラク侵略をいち早く支持したときのように、太平洋の島々を日本の委任統治領と認めてもらうのと引き換えに、イギリス
のパレスチナ委任統治にいち早く賛成したのでした。
イスラエルは国連の承認のもとで生まれたものではない
イギリスの委任統治の時代から既にユダヤ人のパレスチナ移住は、始まっていたのですが、第二次世界大戦が終わって間もなく、できてすぐの国連は、パレスチナ分割に関する国連決議181を採択しました。この決議自体、はじめから国連憲章に違反するもので、パレスチナ人の「自決権」『自己決定権』を無視したものでした。しかしこの決議さえも反故され、パレスチナは国連総会決議181と全く違う形で分割され、1948年5月イスラエルは、一方的に独立を宣言します。こうした混乱の中、スウェーデンのベルナドット伯爵という外交官が、パレスチナ問題の国連調停官になり、国連決議181の方向に近づけようと努力しますが、シオニストのグループに暗殺されてしまいます。どうしていいか分からない国連は、1948年12月に国連決議194を出して、パレスチナ難民の「帰還権」とエルサレムの国際管理をイスラエルに保障させようとしましたが、イスラエルの姿勢がはっきり分かる前に、イスラエルが『平和愛好国』であると認め、国連に加盟させてしまいました。国連は、はじめからその判断を誤りました。
「ナクバ」の発生
さて、国連の分割決議が採択された1947年11月28日以降、イスラエルは、イスラエル国防軍の前身であるハガナーやシオニストのイルグンといった民兵組織を使って、パレスチナ
人の追放と虐殺事件を起こしていました。その一番有名なのが、広河隆一さんの映画「NAKBA」で詳細に記録されている「デイル・ヤスィーン村」の虐殺事件でした。1946年と1949年のパレスチナの人口比率の激変は、イスラエルによる民族浄化の嵐がいかに熾烈であったかを物語っています。
「シオニズム」とは?
1881年には、帝政ロシアでは、ユダヤ人虐殺「ポグロム」が発生し、ロシアや東欧ではユダヤ人への改宗圧力や迫害が強まり、ユダヤ人の中には、迫害を逃れるために、ユダヤ人国家を建設しようという思想が生まれてきます。1896年には、「ドレフュス事件」(フランス陸軍におけるスパイ冤罪事件)の取材していたオーストリアのジャナリスト、テオドール・ヘルツルは、比較的自由なフランス社会においてさえユダヤ人差別があることにショックを受け、ユダヤ人国家の必要性を痛感して、『ユダヤ人国家』という本を出版します。これが政治的
シオニズム運動の始まりといわれています。
ユダヤ教とシオニズムは、イコールではない。
イスラエルは、『母親がユダヤ人であることとユダヤ教を信仰していること』をイスラエル国籍を取得する条件としていますので、多くの人は、イスラエルは、宗教を基盤にした国と思いがちですが、それは正しくありません。シオニストたちは、もともと無神論的な社会主義者でした。そのためシオニズムのイデオロギーは、大きな矛盾を抱えることになります。神が存在しないならば、そもそもイスラエル建国にこだわる必要はないはずです。また神の存在を信じ、トーラーの教えに従うならば、人為的にイスラエルを建国をしようなどとは思わなかったはずです。次の言葉は、シオニズムの抱える矛盾を端的に表しています。
「神は存在しないが、イスラエルの地は、神がユダヤ人に授けた土地である」
ユダヤ人とは誰なのか?ユダヤ教とはなんなのか?
今年この二つの問題を正面から扱った、対照的な二人のユダヤ人によって書かれたシオニズム・イデオロギーの根拠を根底から切り崩すような二冊の本が翻訳されました。両著者とも先ほど来日され、各地で講演もされました。
二冊の本
一冊は、社会主義者の祖父と父をもつ、テルアビブ大学のシュロモー・サンド教授の「ユダヤ人の起源」で、現在のユダヤ人の主流となっている、アシュケナージという白人系のユダヤ人はアブラハムの孫のヤコブ(イスラエル民族の祖先)の子孫ではなく、10世紀頃にユダヤ教に改宗したカザール帝国の子孫で、古代ユダヤ人の子孫は、現代のパレスチナ人である、と主張されています。
もう一冊は、ロシアからカナダに移住された、モントリオール大学の歴史学教授で、ユダヤ教徒でもあるヤコブ・ラブキン教授の「トーラーの名において」という本です。ユダヤ教の側からシオニズムとはどんな思想なのかを詳論しています。イスラエル建国は、神の眼から見て、決して許されることではなく、シオニストのいうユダヤ教は、政治的便宜主義であって、ユダヤ教徒の信仰ではなく、ユダヤ人は、決して『イスラエル』という国に帰属するものではないことを、多くの反シオニストのユダヤ教徒の発言を紹介しながら詳論されています。詳しくは、本を読んでみてください。
パレスチナ問題の原点は、単純なものである
イスラエル国防軍の前身であるハガナーの組織者で、イスラエル独立宣言を行なった初代首相、ベン=グリオンが言ったとされる次のような言葉は、イスラエルの建国神話の『嘘』を正直に表明していると同時に、イスラエルという国の好戦的性格をもよく表しています。
「どうしてアラブ人達が和平に応じるはずがあるでしょうか?もし、私がアラブ人のリーダーなら、イスラエルとは決して話がまとまらないでしょう。それは自然です。我々は彼らの国を
奪った...・・。我々はここへ来て、彼らの国を盗んだ。なぜそれを受け入れるべきなのでしょう?おそらく、彼らは1、2世代のあいだに忘れるでしょう。ただ、今のところ可能性はありません。そう、それは単純なことです。我々は強くあり続け、強力な軍隊を維持しなければなりません。」
ベンーグリオンの言う通り、パレスチナ問題の原点は、単純なものです。そしてその解決には、1948年一方的に独立宣言をしたときのように、イスラエルという国に住む人が、事実を
知り、一方的に変わるほかないように思えます。更には、ユダヤ人に対する贖罪を、それとは何の関係も{ない}パレスチナ人に押し付けてしまった西欧社会の姿も見えてきます。
パレスチナ人は、新しいユダヤ人である
イスラエルのことばかり書いてしまいましたが、60年もの間、世界から見放され、絶滅の危機に晒されたパレスチナ人の絶望は、はかり知れません。パレスチナ人にふりかかってきたことは、まさにかつてのユダヤ人の境遇そのものだと板垣雄三さんは、言います。イスラエルは、パレスチナ人という新しいユダヤ人を生み出してしまいました。住む土地と生活手段を奪われた難民の抵抗は自然権といってもよいものです.手段としては,商店スト(イスラエル人との経済的交渉を小さくする),インティファーダ(イスラエル兵に石つぶてを投げる抵抗運動)です.ロケット弾を打ち込むとか,なかには,絶望の中から自爆テロを志すものも出てきますが,主たる手段はインティファーダです.インティファーダは1987年に初めておこりましたが,重装備のイスラエル軍に投石で対抗するパレスチナの少年や若者の姿が世界に発信されいままで“パレスチナ人はテロリストだ”という見方を,国際世論にあらためさせた力を持っています.いまでは,さまざまな組織(ファタハ,パレスチナ共産党,ハマース,イスラーム・ジハードなど)により支えられ,女性も若者男性が戦いに集中するよう犠牲者の世話をしたり,身だしなみを地味にしたりして協力しています.イスラエル軍におわれた少年や青年は皆でかくまいます.
ガザやヨルダン川西岸のパレスチナ人はおとなでもおねしょをする恐怖にさらされて生活しています.それでも毎日服装を整える,親を失った小さな子の世話を大家族でみるなどをして暮らしています.それをささえているのは相互扶助,公共の精神のバックボーンであるイスラームの教えではないでしょうか.
イスラエル側の手段は多様です;外出禁止令,行政逮捕(理由不要,裁判不要),行政逮捕者を刑務所におくり拷問(場合によっては精神に異常をきたすまで行う),居住地逮捕(住ん
でいるところから出てはいけない),逮捕経験者にグリーンの身分証明書を発行(運動家というレッテルを貼る),催涙弾を学校や民家に投入(老人や乳幼児の命はこれで奪われます),
などです.さらに,ロケット弾や自爆テロ対策と称してガザ,ヨルダン川西岸,ときには周辺諸国を爆撃して住居破壊,無差別殺戮を行います.
パレスチナ問題が、わたしたちに突きつけるもの
世界が、「公正さ」や「愛」に価値を置かなくなったときには、人々の心は、分裂し、混乱や戦争を生み出し、長い眼で見れば、社会は崩壊してしまうということです。そして自己観察と
自己反省なき思想は、自分が望むものとは反対のものを作り出してしまいます。それにしてもイスラエル建国の根拠を、2000年前の聖書神話に求めるシオニストが、1,2世代のうち
にパレスチナ人が「ナクバ」を忘れるだろうと考えるとしたら、途方もなく身勝手な話です。
残念ながら、現在80%から90%のイスラエル人が、イスラエル政府の行為を支持しているといわれていますが、そうした状況下でも、少数ですが、イスラエル政府に反対しているユダヤ人グループもいます。そうしたグループを若干、紹介してこのパネルを終えようと思います。
ゾフロット:
ゾフロットとは、『想起する』というへブライ語の女性形で、暴力的になり勝ちな、男性的な記憶とは異なる、『想起』のあり方を提示しようと、女性形にしたそうです。イスラエルの歴史から抹消されている「ナクバ」の事実をイスラエル人に伝え、占領地入植者と以前その地に住んでいたパレスチナ人との対話の機会を提供したり、「ナクバ」を体験したパレスチナ人の
証言を聞くイベントや破壊され、廃村になったパレスチナ人の村を巡るツアーなどを企画しています。
ネトレイ・カルタ:http://www.nkusa.org/
超正統派のユダヤ教で、イスラエルという国の消滅を祈り、イスラエルの旗を焼いたり、アラファトと会見したり、イランが主催する『ホロコースト・シンポジウム』に参加したり、パレ
スチナ人との連帯を表明しています。
山梨の久松です。甲府では、猛暑の中をいま「平和を願う山梨戦争展」が開催されています。昨年は、八ヶ岳で板垣雄三先生をお招きして、パレスチナ問題を考える「八ヶ岳板垣塾」という講座を6回にわたって開催してきましたが、今年は、もっと多くの人に、パレスチナの人々のことを考えてもらおうと戦争展に、パネルを展示させてもらいました。八ヶ岳でも展示をしようと思っています。そのパネルの内容をこのMLにも転載させてもらいました。ご高覧下されば、幸いです。
(戦争展は8月8日で終了しています。これは会場での展示に使われた文章です。)
パレスチナ問題の原点を考える
パレスチナ問題は、本当に難しいのか?
イスラエルが建国されて、60年余。第二次大戦後の世界の不条理の中心は、パレスチナにあったと言っても過言ではないでしょう。2009年のイスラエルによるガザ攻撃は、皆さんの
記憶にも新しいと思います。極く最近では、ガザ救援の国際的ボランテイア組織、フリー・ガザ運動の救援船が、公海で襲撃され、乗組員が、イスラエル政府によって殺害されたり拉致されたりしています。パレスチナの地では、イスラエル軍による『民族浄化(エスニック・クレンジング)』の嵐が吹き荒れ、パレスチナの人々は、かつてないほどの悲惨な状況に追いやられています。今でもイスラエルーパレスチナ問題に対して、「暴力の連鎖」「どっちもどっち」といった形容句を被せる人は、その人の見識を疑われても仕方ないでしょう。
錯綜を極めるパレスチナ問題ですが、そもそもの原点を考えようという動きが出てきています。「民なき土地に、土地なき民を」というのが、シオニストたちが世界に広めたイスラエル建国神話ですが、事実は決してそうではありませんでした。イスラエル建国から60余年が過ぎた今、パレスチナ人たちが、「ナクバ(大災厄)」と呼ぶ、パレスチナ人の大量虐殺と追放が、クローズアップされています。始まりの中に現在が隠されていると思いますので、このパネル展示でも、イスラエル建国の前後に焦点を当てたいと思います。なんといっても、イスラエルーパレスチナ紛争は、一地域紛争といったものではなく、過去の世界戦争や世界の未来の命運と深く関わっているのですから、わたしたちは、何が『真実』なのかを見極めなければならなりません。そうはいっても今やパレスチナ紛争に関しての資料は、膨大なものがあります。このパネル展示は、その一端をご紹介できるにすぎません。関連書籍なども展示いたしましたので、この展示が、パレスチナ問題に対するみなさまの関心を深める契機になれば、嬉しいです。
八ヶ岳板垣塾有志 製作者一同
パレスチナ問題の具体化は、第一次世界大戦にあり
パレスチナ問題は、1880年代のヨーロッパにおけるユダヤ人差別から起きたユダヤ人の「シオニズム」運動に始まりますが、パレスチナ分割が、問題になり出したのは、第一次世界大戦のことでした。
第一次世界大戦時に連合国側のイギリスは、同盟国側(ドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリア)との戦争に勝とうと複数の国と取り交わした2つの秘密協定と1つの宣言文が重要になります。
1915年、「フサインーマクマホン協定」:第一次大戦、ドイツとの同盟を結んでいたオスマン・トルコに対して、武装蜂起をアラブ人住民に呼びかけ、その見返りとして、アラブ人居
住区の独立を保障した。
1916年「サイクス・ピコ協定」:ロシア・フランス・イギリスで結ばれたオスマン・トルコ分割の秘密協定
1917年、「バルフォア宣言」:戦費を賄うために、英国は、ユダヤ人金融家ロスチャイルド家に資金提供を求め、シオニズム運動に賛同し、パレスチナにユダヤ人居住地の建設を支持
する。
日本は、パレスチナ問題については全く手を汚していないかといえば、そうとはいえないのです。1920年、第一次世界大戦の戦勝国が集まって、中東の線引きを決める「サンレモ会議」というものが開かれます。日本は、イラク戦争で、アメリカのイラク侵略をいち早く支持したときのように、太平洋の島々を日本の委任統治領と認めてもらうのと引き換えに、イギリス
のパレスチナ委任統治にいち早く賛成したのでした。
イスラエルは国連の承認のもとで生まれたものではない
イギリスの委任統治の時代から既にユダヤ人のパレスチナ移住は、始まっていたのですが、第二次世界大戦が終わって間もなく、できてすぐの国連は、パレスチナ分割に関する国連決議181を採択しました。この決議自体、はじめから国連憲章に違反するもので、パレスチナ人の「自決権」『自己決定権』を無視したものでした。しかしこの決議さえも反故され、パレスチナは国連総会決議181と全く違う形で分割され、1948年5月イスラエルは、一方的に独立を宣言します。こうした混乱の中、スウェーデンのベルナドット伯爵という外交官が、パレスチナ問題の国連調停官になり、国連決議181の方向に近づけようと努力しますが、シオニストのグループに暗殺されてしまいます。どうしていいか分からない国連は、1948年12月に国連決議194を出して、パレスチナ難民の「帰還権」とエルサレムの国際管理をイスラエルに保障させようとしましたが、イスラエルの姿勢がはっきり分かる前に、イスラエルが『平和愛好国』であると認め、国連に加盟させてしまいました。国連は、はじめからその判断を誤りました。
「ナクバ」の発生
さて、国連の分割決議が採択された1947年11月28日以降、イスラエルは、イスラエル国防軍の前身であるハガナーやシオニストのイルグンといった民兵組織を使って、パレスチナ
人の追放と虐殺事件を起こしていました。その一番有名なのが、広河隆一さんの映画「NAKBA」で詳細に記録されている「デイル・ヤスィーン村」の虐殺事件でした。1946年と1949年のパレスチナの人口比率の激変は、イスラエルによる民族浄化の嵐がいかに熾烈であったかを物語っています。
「シオニズム」とは?
1881年には、帝政ロシアでは、ユダヤ人虐殺「ポグロム」が発生し、ロシアや東欧ではユダヤ人への改宗圧力や迫害が強まり、ユダヤ人の中には、迫害を逃れるために、ユダヤ人国家を建設しようという思想が生まれてきます。1896年には、「ドレフュス事件」(フランス陸軍におけるスパイ冤罪事件)の取材していたオーストリアのジャナリスト、テオドール・ヘルツルは、比較的自由なフランス社会においてさえユダヤ人差別があることにショックを受け、ユダヤ人国家の必要性を痛感して、『ユダヤ人国家』という本を出版します。これが政治的
シオニズム運動の始まりといわれています。
ユダヤ教とシオニズムは、イコールではない。
イスラエルは、『母親がユダヤ人であることとユダヤ教を信仰していること』をイスラエル国籍を取得する条件としていますので、多くの人は、イスラエルは、宗教を基盤にした国と思いがちですが、それは正しくありません。シオニストたちは、もともと無神論的な社会主義者でした。そのためシオニズムのイデオロギーは、大きな矛盾を抱えることになります。神が存在しないならば、そもそもイスラエル建国にこだわる必要はないはずです。また神の存在を信じ、トーラーの教えに従うならば、人為的にイスラエルを建国をしようなどとは思わなかったはずです。次の言葉は、シオニズムの抱える矛盾を端的に表しています。
「神は存在しないが、イスラエルの地は、神がユダヤ人に授けた土地である」
ユダヤ人とは誰なのか?ユダヤ教とはなんなのか?
今年この二つの問題を正面から扱った、対照的な二人のユダヤ人によって書かれたシオニズム・イデオロギーの根拠を根底から切り崩すような二冊の本が翻訳されました。両著者とも先ほど来日され、各地で講演もされました。
二冊の本
一冊は、社会主義者の祖父と父をもつ、テルアビブ大学のシュロモー・サンド教授の「ユダヤ人の起源」で、現在のユダヤ人の主流となっている、アシュケナージという白人系のユダヤ人はアブラハムの孫のヤコブ(イスラエル民族の祖先)の子孫ではなく、10世紀頃にユダヤ教に改宗したカザール帝国の子孫で、古代ユダヤ人の子孫は、現代のパレスチナ人である、と主張されています。
もう一冊は、ロシアからカナダに移住された、モントリオール大学の歴史学教授で、ユダヤ教徒でもあるヤコブ・ラブキン教授の「トーラーの名において」という本です。ユダヤ教の側からシオニズムとはどんな思想なのかを詳論しています。イスラエル建国は、神の眼から見て、決して許されることではなく、シオニストのいうユダヤ教は、政治的便宜主義であって、ユダヤ教徒の信仰ではなく、ユダヤ人は、決して『イスラエル』という国に帰属するものではないことを、多くの反シオニストのユダヤ教徒の発言を紹介しながら詳論されています。詳しくは、本を読んでみてください。
パレスチナ問題の原点は、単純なものである
イスラエル国防軍の前身であるハガナーの組織者で、イスラエル独立宣言を行なった初代首相、ベン=グリオンが言ったとされる次のような言葉は、イスラエルの建国神話の『嘘』を正直に表明していると同時に、イスラエルという国の好戦的性格をもよく表しています。
「どうしてアラブ人達が和平に応じるはずがあるでしょうか?もし、私がアラブ人のリーダーなら、イスラエルとは決して話がまとまらないでしょう。それは自然です。我々は彼らの国を
奪った...・・。我々はここへ来て、彼らの国を盗んだ。なぜそれを受け入れるべきなのでしょう?おそらく、彼らは1、2世代のあいだに忘れるでしょう。ただ、今のところ可能性はありません。そう、それは単純なことです。我々は強くあり続け、強力な軍隊を維持しなければなりません。」
ベンーグリオンの言う通り、パレスチナ問題の原点は、単純なものです。そしてその解決には、1948年一方的に独立宣言をしたときのように、イスラエルという国に住む人が、事実を
知り、一方的に変わるほかないように思えます。更には、ユダヤ人に対する贖罪を、それとは何の関係も{ない}パレスチナ人に押し付けてしまった西欧社会の姿も見えてきます。
パレスチナ人は、新しいユダヤ人である
イスラエルのことばかり書いてしまいましたが、60年もの間、世界から見放され、絶滅の危機に晒されたパレスチナ人の絶望は、はかり知れません。パレスチナ人にふりかかってきたことは、まさにかつてのユダヤ人の境遇そのものだと板垣雄三さんは、言います。イスラエルは、パレスチナ人という新しいユダヤ人を生み出してしまいました。住む土地と生活手段を奪われた難民の抵抗は自然権といってもよいものです.手段としては,商店スト(イスラエル人との経済的交渉を小さくする),インティファーダ(イスラエル兵に石つぶてを投げる抵抗運動)です.ロケット弾を打ち込むとか,なかには,絶望の中から自爆テロを志すものも出てきますが,主たる手段はインティファーダです.インティファーダは1987年に初めておこりましたが,重装備のイスラエル軍に投石で対抗するパレスチナの少年や若者の姿が世界に発信されいままで“パレスチナ人はテロリストだ”という見方を,国際世論にあらためさせた力を持っています.いまでは,さまざまな組織(ファタハ,パレスチナ共産党,ハマース,イスラーム・ジハードなど)により支えられ,女性も若者男性が戦いに集中するよう犠牲者の世話をしたり,身だしなみを地味にしたりして協力しています.イスラエル軍におわれた少年や青年は皆でかくまいます.
ガザやヨルダン川西岸のパレスチナ人はおとなでもおねしょをする恐怖にさらされて生活しています.それでも毎日服装を整える,親を失った小さな子の世話を大家族でみるなどをして暮らしています.それをささえているのは相互扶助,公共の精神のバックボーンであるイスラームの教えではないでしょうか.
イスラエル側の手段は多様です;外出禁止令,行政逮捕(理由不要,裁判不要),行政逮捕者を刑務所におくり拷問(場合によっては精神に異常をきたすまで行う),居住地逮捕(住ん
でいるところから出てはいけない),逮捕経験者にグリーンの身分証明書を発行(運動家というレッテルを貼る),催涙弾を学校や民家に投入(老人や乳幼児の命はこれで奪われます),
などです.さらに,ロケット弾や自爆テロ対策と称してガザ,ヨルダン川西岸,ときには周辺諸国を爆撃して住居破壊,無差別殺戮を行います.
パレスチナ問題が、わたしたちに突きつけるもの
世界が、「公正さ」や「愛」に価値を置かなくなったときには、人々の心は、分裂し、混乱や戦争を生み出し、長い眼で見れば、社会は崩壊してしまうということです。そして自己観察と
自己反省なき思想は、自分が望むものとは反対のものを作り出してしまいます。それにしてもイスラエル建国の根拠を、2000年前の聖書神話に求めるシオニストが、1,2世代のうち
にパレスチナ人が「ナクバ」を忘れるだろうと考えるとしたら、途方もなく身勝手な話です。
残念ながら、現在80%から90%のイスラエル人が、イスラエル政府の行為を支持しているといわれていますが、そうした状況下でも、少数ですが、イスラエル政府に反対しているユダヤ人グループもいます。そうしたグループを若干、紹介してこのパネルを終えようと思います。
ゾフロット:
ゾフロットとは、『想起する』というへブライ語の女性形で、暴力的になり勝ちな、男性的な記憶とは異なる、『想起』のあり方を提示しようと、女性形にしたそうです。イスラエルの歴史から抹消されている「ナクバ」の事実をイスラエル人に伝え、占領地入植者と以前その地に住んでいたパレスチナ人との対話の機会を提供したり、「ナクバ」を体験したパレスチナ人の
証言を聞くイベントや破壊され、廃村になったパレスチナ人の村を巡るツアーなどを企画しています。
ネトレイ・カルタ:http://www.nkusa.org/
超正統派のユダヤ教で、イスラエルという国の消滅を祈り、イスラエルの旗を焼いたり、アラファトと会見したり、イランが主催する『ホロコースト・シンポジウム』に参加したり、パレ
スチナ人との連帯を表明しています。
by halunet
| 2010-08-18 11:57
| パレスチナの平和