2009年 07月 08日
憲法9条の力 |
久松重光
今年3月亡くなられたアレン・ネルソンさんの記事が、東京新聞に掲載されているのを、東京のある友人が、教えてくれました。9条は、「奇跡」とアレンさんも言っていました。僕もそう思います。9条の奇跡性は、科学の発展の末に原爆をも生み出すという時代精神がもたらした悲劇の中で、それに対峙する「いのちの原理」として、人類に与えられたものである、と僕は思っています。「戦争放棄」を憲法に明記した日本には、特別が使命があると思っています。
アレンさんは、最後は、浄土真宗の仏教徒として命を閉じたと記事には出ています。数百人ものベトナムの人を殺したと告白しているアレンさんには、きっと「わがこころのよくてころさずにはあらず、また害せじと思ふとも、百人千人をころすこともあるべし」という歎異抄の親鸞聖人の言葉は、どんなにか深く心に沁みていたことか、と想像したりします。アレンさんには、9条は、ご自分が体験したこうした「業縁」を作らないものとして、人一倍重要なものであったのではないでしょうか?
20090706_東京新聞 特報
憲法9条は奇跡受け継がねば
訴え続けた元海兵隊ネルソンさん 石川に納骨
ベトナム戦争の従軍体験から、戦争放棄を定めた日本国憲法第九条の大切さを訴え続けた元米海兵隊員アレン・ネルソンさんが今年三月、六十一歳で死去し、遺骨が石川県加賀市の浄土真宗寺院光せん坊に納められた。生前、平和への思いで共感し、同寺の佐野明弘住職(五一)と交流を深めたからだ。ネルソンさんは何を伝え、遺したのか。
(加賀通信局・池田知之)
ネルソンさんは常々こう言っていた。「六十年以上、世界中の誰もが日本軍から爆弾を落とされていないし、誰も殺されていない。日本の子どもたちが戦争を知らないことは素晴らしい。九条の持つ力で世界の宝だ」
二人の交流が始まったのは二〇〇四年。佐野住職が本紙の同年二月五日の特報面でネルソンさんの活動を知ったのかきっかけだ。
ネルソンさんは一九九六年から二〇〇八年まで日本で八百回超の講演会をこなした。十八歳で海兵隊に志願入隊し、十三ヵ月、ベトナムで戦った。講演ではジャングルであった戦争の姿を包み隠さず伝えた。米兵が兵士だけでなく女性や子ども、を殺し、略奪や強姦、放火を繰り返したこと、自身も数百人のベトナム人を殺したこと。ネルソンさんの心の何かがおかしくなったことー。
ベトナム戦争除隊後PTSD
除隊後も、頭からは殺したベトナム人の顔、親を殺された子どもたちの泣き叫ぶ声か離れない。夜中に跳び起き、目は野獣のように血走る。奇行か続き、家族から追い出されホームレスになった。心的外傷後ストレス障害(PTSD)にかかっており、十八年かけ友人や医師らの懸命の治療もあり回復し、講演をするようになったという。九六年の初来日の際に第九条の条文を見て、ネルソンさんは衝撃を受けた。「ガンジーやキング牧師が日本に与えたのかと思った。アメリカにこそこんな憲法か必要だ」。だから九条の大切さを繰り返し訴える。集会での出席者から批判されることも少なくない。「中国や北朝鮮などが軍備を増強している。九条など時代遅れ」
日本国憲法の力 教えてくれた
そんな時、ネルソンさんはいつも静かにこう応えていたという。「平和は国や国連などでつくるものではない。私たちがいるこの場所からつくるものだ。対話をしよう。友達になったら人は殺せない」「一度でも九条を失ったら、二度と戻せない。奇跡的なことなんだ」
なぜ平和活動に身を投じたのか。佐野住職は言う。「本当の戦争を知っていた。自分のような者を再び生み出したくなかったんです]。ネルソンさんは年下の佐野住職を「師匠」と仰いでいた。
一方で、佐野住職は「ネルソンさんこそ私の師であり、友です」と話す。佐野住職は、ネルソンさんと出会う前まで「日本国憲法は力がない」と感じていた。自衛隊があり、海外にも出る。「九条の大切さは、恥ずかしながらアメリカ人に教わったんですよね」
キリスト教徒から、佐野住職と意見を交わすうち、最期は仏教徒として命を閉じたネルソンさん。六月二十五日、同寺でしのぶ命が開かれ、百七十人か集まり、ネルソンさんへの思いを語った。「遺志を継かなければ」「これからも九条の大切さを訴え続けよう」。ネルソンさんはもうこの世にはいない。だが、彼の遺した思いは受け継かれていくに違いない。
by halunet
| 2009-07-08 07:28
| 憲法9条と安保