2009年 05月 18日
ベーシックインカムをめぐる対話 |
それはあるメーリングリストで民主党の小沢氏の辞任についての感想を書いた、富山県に住むイソップさんと山梨県の久松さんのメールのやりとりからでした。その中で「自然の恵みなしでは、いくらおカネがあっても生きられない人間が、そのおカネ経済のために、貴重な自然をとことん食い尽くそうとする!カルト的狂気」という言葉からBIの是否を巡る議論に発展していきました。
BIについての批判は財源論やフリーライダー(怠け者天国)についてがほとんどですが、イソップさんから出された批判は、ほとんど同じ問題意識の中からでてきたものとして、貴重なものではないでしょうか。そこでイソップさんにはメールでここへの転載を了解をお願いしました。
以下がそれへの返信です。
〜〜〜〜〜〜
連絡ありがとうございます。
僕自身が手探りしながら発言していることですので、
読んだ方にどこまで通じているのか、戸惑いもあります。
それでも、久松さんとのやりとりを読んだ春木さんが、
取り上げる価値があると思ってくださったなら、
それは僕にとって嬉しいことでもありますので、
どうぞ転載していただいてかまいません。
僕の視点は、川口由一、池田晶子、イバン・イリイチ、
ベルナール・スティグレールなどからヒントを得たもので、
“生き方としての自然農”を実践の基本としています。
ブログへの転載であれば、僕のブログ「イソップ通信」も、
紹介していただければ、ありがたいです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
イソップ通信
http://blogs.yahoo.co.jp/isop18
(リンク欄から入れます)
久松さん、イソップです。
自然の恵みなしでは、いくらおカネがあっても生きられない人間が、そのおカネ経済のために、貴重な自然をとことん食い尽くそうとする!このカルト的狂気から抜け出すためには、何が必要なのでしょうか?
イソップさん、今日は。久松です。
地方に暮らしていると、みんな何かしらを作っていて、にんじんや大根をもらったり、食べ物の問題ではそれほど、不安になりません。ただどこに行くにも、距離があるので、すべて歩いてというわけにも行きません。やはりお金と無縁には生きられません。
僕たちのところでは、ゴミの処分場問題で、もう15年も裁判をしていましたが、裁判所は、県と業者の癒着を糺すこともせず、県と業者の言い分を容認する形で結審し、20日から操業ということになってしまいました。もちろん僕たちの仲間は、20日も抗議に行きますが・・。
原告の住民たちは、専門家を交えて、よく勉強していて、将来起こるであろう事態を、かなり正確に予測しています。水源地に処分場を作ってしまったものですから、水の汚染、健康被害は、これから必然的に出てくるのは、避けられないことでしょう。
どうしてこんなことになってしまったのか?やはりお金です。ある意味では、財源の乏しい地方の方が、「お金」の問題は赤裸々になっているように思います。日本は社会保障を完備せず、その代わりに長年の利益誘導行政をしてきたおかげで、多くの地方住民もその慣習から抜け出せないでいます。山梨県は、土建行政で有名ですが、僕の住んでいるところは道路ばかり作っています。そしていまだ利益誘導のパイプのある政治家ばかりが当選します。でも政治家ばかり責めるわけにも行
かないように思います。だってここいら辺では、土木関係で生計をたてている人が、ものすごく多いのですから、政治家はそうした人たちの失業圧力に無頓着でいるわけにもいかないでしょう。
僕はいまベーシック・インカム(基本所得保障)に関心を持っています。ベーシック・インカム(基本所得保障)が導入されれば、政治家の存在意味もだいぶ変わってくるように思いますし、住民ももっと巨視的に子供たちの未来を考えることが、できるようになるのではないかと、淡い期待を抱いています。
久松拝
久松さん、イソップです。
お金で社会問題を解決しようとしても、お金が増えることは社会格差を増やすことでしかないので、いつまでたっても期待させるだけで、解決することはないでしょう。
お金にはいくつもの側面がありますが、中でも量の問題は重要で、自然も資源も有限な世界で、おカネを無制限に増やすことは、自動的に物価を押し上げていくことは経済学の常識です。
この物価上昇に乗り遅れないために、さらにおカネを稼ぐから、おカネを稼ぐ以外の仕事をしている人は、相対的に貧困となる。
現在のおカネは、為替相場以前のおカネとは違うもので、錬金術のように“おカネがおカネを生む”のですから、BIをいくら保証しても、その減資が勝手に増えてしまえば、相対的に持たざる人々が貧しくなる仕組みから逃れられないのです。
したがって、この問題の解決には、おカネの総量をコントロールするか、それが出来ないなら、おカネの問題をおカネで解決しようとしないで、違う生き方を模索し、実践していく、多様な生き方の実現が必要です。そうした生き方は、特別難しかったり、困難だったりするわけではなく、何よりもまず、今の常識に囚われない発想の解放が必要でしょう。
おカネの問題は、まだ決して赤裸々になったわけではなく、ようやく少し姿が見えてきた段階だと思います。人間存在を、単なる消費者ではなく、全人的に見るならば、おカネを使うことは、自らの能力を奪われることでもあって、言い換えるなら、生きている本来の喜びを失うことでもあります。
こうした人間観は、すでに多くの学識者が指摘していますが、経済拡大が人々を幸せにすると言った、圧倒的な宣伝によって、ほとんどの人は、何を言われているのかさえわからないのです。
人は目標がないと安楽を求めるので、おカネさえあれば楽になる!と思い込めば、おカネがすべてを解決すると思うのは必然で、おカネによるおカネ問題の解決を図ろうとしますが、それは人間本来の価値を、必要以上に落としこめる考えです。
だからと言って、おカネが不要だと言うのではありません。おカネを人々のコントロールできる位置に収め、頼りすぎないで、本来の人間が持っている多種多様な能力を優先して、生きられるよう、枯渇資源の拡大消費型の社会から、循環自立型社会への転換が必要で、ここに“懐かしい未来”も実在すると考えています。
イソップさん、今晩は。山梨の久松です。
僕は、イソップさんの生きる姿勢に、共感します。それを前提に話します。
冒頭の「お金で社会問題を解決しようとしても、お金が増えることは社会格差を増やすことでしかないので、いつまでたっても期待させるだけで、解決することはないでしょう。」というご意見、現代の問題は、この社会の改革を可能にすると期待させるだけのオルタナティブがないところに大きな問題があるのではないでしょうか。
僕にとっては、これは憲法の問題とも関連しています。25条でいくら「生存権」を規定しても、この資本主義のあり方では絵に描いた餅で、「生存権」を保障するようなシステムになっていない。だから多くの人は、憲法をないがしろにする。ドイツのヴェルナーも、BIは人間の尊厳を規定したドイツ憲法第一条にBIの根拠を見出しています。
それに僕自身は、なるべくマネー万能のシステムに取り込まれないで生きていきたい、と模索していますが、そうはいっても、残念ながらいくら無くなってほしいと望んでも、貨幣というものは、決してなくならないと思います。高度化して悪霊のように変質してしまったマネーの力は、村の自然から世界戦争まで破壊してゆきます。こちらが、いくら「おカネの問題をおカネで解決しようとしないで、違う生き方を模索して」といても、マネーの侵食力は、もっと強い。どんどん木や森を破壊してゆきます。そこで働く人も、食い扶持のために後先を考えず、どんどん自然を破壊してゆきます。そのときBIがあったら、その人はそんな仕事に従事しなくとも、食べていけるでしょう。意に沿わない会社で、過労死まで働き続ける必要もなくなります。社員が集まらないサイコパスな会社はつぶれるでしょう。BIは、「お金」のホメオパティー療法だと思っています。
一方で、お金にはならなくとも、森や林を守ろうとしている人もいるでしょう。イソップさんもその一人でしょう。そういう人は、BIなどなくとも、どうにかしてそうするでしょう。僕は、そういう生き方をすで選び取った人を問題にしていません。
そうではなくて、「お金」が万能ではないと知りつつも、様々な事情から意に沿わないことをやらざる得ない人たち、家へ帰れば「誰のお陰で食ってんだ」なんて家族に八つ当たりしてしまう多くの人たちが、違う道に挑戦する機会をBIは与えてくれるのではないでしょうか。
また「BIをいくら保証しても、その減資が勝手に増えてしまえば相対的に持たざる人々が貧しくなる仕組みから逃れられないのです。」というご意見、なにかBIのことを誤解されているように思います。BIは、ただ単にこれまでの福祉政策の代替物ではなく、「労働」や「資本」のあり方のパラダイム変換を促すだろう、と想像しています。
BIは、「人は、パンのみ生きるにあらず」ということを、まさに「お金」という観点から教えてくれる試みのように僕には思えます。BIは、「お金」を稼ぐ意外の価値を追求するとさらに貧困になる、弱いかもしれないが、善良な人たちが絶望して自殺したり、そういう人がいつの世の中にもいる金もうけだけが生きがいという人に隷属することなく、独立していける機会を提供してくれるのではないでしょうか?BIは、イソップさんが言われるように「本来の人間が持っている多種多様な能力を優先して生きられるよう、枯渇資源の拡大消費型の社会から、循環自立型社会への転換」を誘発させ、「お金」の流れをそういう方向へと自然な形に変えてゆく「労働」のあり方を誘発させる潜在力を秘めているのではないか、と思っています。
僕は、はじめBIのことを知ったとき、様々な違和感や異論が頭をもたげました。でもこの考え方に沿って、いろいろ想像をめぐらすと、本当に様々な分野で、意識変革が起こるのではないかと感じるようになりました。そしてこのBIの根底にある思想は、「性善説」であろうと思います。「たとえどんな生であっても、生きていることは良いことだ」とゲーテがいっていますが、ヴェルナーがゲーテから多大な影響を受けたのもうなずけます。
でも、世界の現状を見ていれば、自然と「性悪説」になりがちな時代、この思想は容易いものではないかもしれません。そこにまた思わぬ盲点があるのかもしれません。それにBI導入は、東アジア経済圏構想などと一緒に進める必要があるのかもしれません。でも僕には、BIは魅力をもっているので、少し誤解を解きたいと思い、メールしました。
久松拝
久松さん、イソップです。
丁寧に解説していただいて、ありがとうございます。僕は実は、BIのことを最初に聞いたときは、現状を打破する、よい考え方だと思ったのも事実です。
あるいは千葉大の上村さんが言われる国際連帯税や、環境税のようなお金の仕組みが、現状を変えてくれる。そう期待したい気持ちはあるのですが、おカネの問題は、根元的なところを押さえないと、よかれと思うことを、やってもやってもすり抜ける。したがって、これをコントロールできない限り、どんな案も机上の空論に終わるだろうと考えるのです。
なるべく別の価値観を導入して生きる!とは、おカネよりも人間性に信頼を置くからであって、僕はこの方が性善説に合っているだろうと思います。BIが必要だと思うのは、人間性よりおカネに信頼を置き、おカネがなければ何も出来ないと言う間違いを犯します。これは現在のあらゆる社会問題に対して、既得利権の為政者が、いつも言い訳に使うセリフです。
現在のおカネが受け持っている強大な役割を認めれば、久松さんがおっしゃる手法は、正しいのだと思いますが、それではいつまでたっても、市井の人は無能です。本来現実の人間は、もっと自由で創意に満ちた存在なのに、おカネ経済のチカラが強大すぎて、封じ込まれているのです。僕はこの現代社会の、おカネが受け持っている役割に、人権を脅かしている危惧を感じて、反発するのです。
労働の在り方がおカネに誘導されるのは表面的なことで、人々は最終的に、自分の存在意味と労働価値を統一させたい!それを可能にするのは、自由意志でしかありません。現代の価値観では、説明することさえ簡単ではありませんが、人間の性善説こそ信じて、金善説を排したいのです。
実は久松さんのおっしゃるBIとは、僕は健全な自然界のことだと考えています。その大規模破壊を可能にしているおカネシステムを、少しでも無力化することが必要と考えます。
イソップさん 今晩は。久松です。
僕は、経済学のいうのが、嫌いでした。経済学の本は、僕の睡眠薬でした。1ページ読むと眠くなる。関ひろのさんも言っていますが、経済分析をやっているアナリストとか、もうだいぶ昔になりますが大学での経済政策の授業なんて、みんな銀行の手先のように思え、何か生きるうえで重要なものを欠いた詐欺師のように思えました。その典型例が、竹中平蔵。
BIに触れて、初めて経済というものに積極的な興味を持ちました。BIは、高度にシステム化オートメ化された社会だからこそ、必要とされるように思っています。
ベーシック・インカムの考え方は、僕には、まだまだ疑問点も多く(たとえば、誰を支給にするのかとか)これから勉強して、議論するテーマだと思っています。ところで現在のマネーのあり方から判断すると、なるべく「お金」に頼らず、シンプルな生き方をしたいというのは、僕にも、ものすごく身近な考えです。
でもイソップさんのBIの捉え方、やはり誤解があるのではないでしょうか?再度表明しますが、イソップさんの生きる基本姿勢に共感しています。でもBIのことになりますと、イソップさんの問題意識に僕が共感している部分が、イソップさんのBIにする反発になっていて、ちょっと不思議な感じがします。
たとえば、イソップさんが、「労働の在り方がおカネに誘導されるのは表面的なことで、人々は最終的に、自分の存在意味と労働価値を統一させたい!それを可能にするのは、自由意志でしかありません。」と言われますが、BI導入賛成論者が、BIなど導入したらみんな働かなくなるだろうという導入反対論者に対して、まさにイソップさんが言われるように反論しているのです。「労働」と「所得」を分離せよ、とBIは主張しているのですから。
ところで、自由意志の問題ですが、世の中には、なにかの拍子で人生の歯車が狂ってしまって行き詰ってしまったり、生まれつき身体が弱くてこの競争社会では生き辛かったり、また親の介護で余儀なく職を辞したり、自分ではどうしようもない事情で、困窮している人も、たくさんいると思います。自由意志論を完成させる上でも、BI導入は、助けこそなれ障害にはならないと思うのですが・・。BIという生存保障があれば、その人の生存不安の要素、ごく一部かもしれませんが、を軽減してくれるのではないか、と思います。
それとBIは、国際連帯税とか、環境税とか、あるいはトービン税とか、対処的な方策とは、だいぶ違うコンセプトだと思っています。
でもこのMLで議論できてよかったと思います。BIは僕自身まだ勉強中です。また機会があったら、議論したく思います。ご回答ありがとうございました。
久松拝
久松さん、イソップです。
何度も申し訳ありません。
おかげさまで、何がお互いの誤解が、いくらか見えてきました。根元的に、人間の価値を何と見るか?は共通していると思います。違うのはたぶん、おカネ経済に対する距離の取り方なのですが、
これは僕にとっても、まだデリケートな段階なので、久松さんほか、皆さんのご意見を伺いながら、僕も考えます。ありがとうございました。
BIについての批判は財源論やフリーライダー(怠け者天国)についてがほとんどですが、イソップさんから出された批判は、ほとんど同じ問題意識の中からでてきたものとして、貴重なものではないでしょうか。そこでイソップさんにはメールでここへの転載を了解をお願いしました。
以下がそれへの返信です。
〜〜〜〜〜〜
連絡ありがとうございます。
僕自身が手探りしながら発言していることですので、
読んだ方にどこまで通じているのか、戸惑いもあります。
それでも、久松さんとのやりとりを読んだ春木さんが、
取り上げる価値があると思ってくださったなら、
それは僕にとって嬉しいことでもありますので、
どうぞ転載していただいてかまいません。
僕の視点は、川口由一、池田晶子、イバン・イリイチ、
ベルナール・スティグレールなどからヒントを得たもので、
“生き方としての自然農”を実践の基本としています。
ブログへの転載であれば、僕のブログ「イソップ通信」も、
紹介していただければ、ありがたいです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
イソップ通信
http://blogs.yahoo.co.jp/isop18
(リンク欄から入れます)
久松さん、イソップです。
自然の恵みなしでは、いくらおカネがあっても生きられない人間が、そのおカネ経済のために、貴重な自然をとことん食い尽くそうとする!このカルト的狂気から抜け出すためには、何が必要なのでしょうか?
イソップさん、今日は。久松です。
地方に暮らしていると、みんな何かしらを作っていて、にんじんや大根をもらったり、食べ物の問題ではそれほど、不安になりません。ただどこに行くにも、距離があるので、すべて歩いてというわけにも行きません。やはりお金と無縁には生きられません。
僕たちのところでは、ゴミの処分場問題で、もう15年も裁判をしていましたが、裁判所は、県と業者の癒着を糺すこともせず、県と業者の言い分を容認する形で結審し、20日から操業ということになってしまいました。もちろん僕たちの仲間は、20日も抗議に行きますが・・。
原告の住民たちは、専門家を交えて、よく勉強していて、将来起こるであろう事態を、かなり正確に予測しています。水源地に処分場を作ってしまったものですから、水の汚染、健康被害は、これから必然的に出てくるのは、避けられないことでしょう。
どうしてこんなことになってしまったのか?やはりお金です。ある意味では、財源の乏しい地方の方が、「お金」の問題は赤裸々になっているように思います。日本は社会保障を完備せず、その代わりに長年の利益誘導行政をしてきたおかげで、多くの地方住民もその慣習から抜け出せないでいます。山梨県は、土建行政で有名ですが、僕の住んでいるところは道路ばかり作っています。そしていまだ利益誘導のパイプのある政治家ばかりが当選します。でも政治家ばかり責めるわけにも行
かないように思います。だってここいら辺では、土木関係で生計をたてている人が、ものすごく多いのですから、政治家はそうした人たちの失業圧力に無頓着でいるわけにもいかないでしょう。
僕はいまベーシック・インカム(基本所得保障)に関心を持っています。ベーシック・インカム(基本所得保障)が導入されれば、政治家の存在意味もだいぶ変わってくるように思いますし、住民ももっと巨視的に子供たちの未来を考えることが、できるようになるのではないかと、淡い期待を抱いています。
久松拝
久松さん、イソップです。
お金で社会問題を解決しようとしても、お金が増えることは社会格差を増やすことでしかないので、いつまでたっても期待させるだけで、解決することはないでしょう。
お金にはいくつもの側面がありますが、中でも量の問題は重要で、自然も資源も有限な世界で、おカネを無制限に増やすことは、自動的に物価を押し上げていくことは経済学の常識です。
この物価上昇に乗り遅れないために、さらにおカネを稼ぐから、おカネを稼ぐ以外の仕事をしている人は、相対的に貧困となる。
現在のおカネは、為替相場以前のおカネとは違うもので、錬金術のように“おカネがおカネを生む”のですから、BIをいくら保証しても、その減資が勝手に増えてしまえば、相対的に持たざる人々が貧しくなる仕組みから逃れられないのです。
したがって、この問題の解決には、おカネの総量をコントロールするか、それが出来ないなら、おカネの問題をおカネで解決しようとしないで、違う生き方を模索し、実践していく、多様な生き方の実現が必要です。そうした生き方は、特別難しかったり、困難だったりするわけではなく、何よりもまず、今の常識に囚われない発想の解放が必要でしょう。
おカネの問題は、まだ決して赤裸々になったわけではなく、ようやく少し姿が見えてきた段階だと思います。人間存在を、単なる消費者ではなく、全人的に見るならば、おカネを使うことは、自らの能力を奪われることでもあって、言い換えるなら、生きている本来の喜びを失うことでもあります。
こうした人間観は、すでに多くの学識者が指摘していますが、経済拡大が人々を幸せにすると言った、圧倒的な宣伝によって、ほとんどの人は、何を言われているのかさえわからないのです。
人は目標がないと安楽を求めるので、おカネさえあれば楽になる!と思い込めば、おカネがすべてを解決すると思うのは必然で、おカネによるおカネ問題の解決を図ろうとしますが、それは人間本来の価値を、必要以上に落としこめる考えです。
だからと言って、おカネが不要だと言うのではありません。おカネを人々のコントロールできる位置に収め、頼りすぎないで、本来の人間が持っている多種多様な能力を優先して、生きられるよう、枯渇資源の拡大消費型の社会から、循環自立型社会への転換が必要で、ここに“懐かしい未来”も実在すると考えています。
イソップさん、今晩は。山梨の久松です。
僕は、イソップさんの生きる姿勢に、共感します。それを前提に話します。
冒頭の「お金で社会問題を解決しようとしても、お金が増えることは社会格差を増やすことでしかないので、いつまでたっても期待させるだけで、解決することはないでしょう。」というご意見、現代の問題は、この社会の改革を可能にすると期待させるだけのオルタナティブがないところに大きな問題があるのではないでしょうか。
僕にとっては、これは憲法の問題とも関連しています。25条でいくら「生存権」を規定しても、この資本主義のあり方では絵に描いた餅で、「生存権」を保障するようなシステムになっていない。だから多くの人は、憲法をないがしろにする。ドイツのヴェルナーも、BIは人間の尊厳を規定したドイツ憲法第一条にBIの根拠を見出しています。
それに僕自身は、なるべくマネー万能のシステムに取り込まれないで生きていきたい、と模索していますが、そうはいっても、残念ながらいくら無くなってほしいと望んでも、貨幣というものは、決してなくならないと思います。高度化して悪霊のように変質してしまったマネーの力は、村の自然から世界戦争まで破壊してゆきます。こちらが、いくら「おカネの問題をおカネで解決しようとしないで、違う生き方を模索して」といても、マネーの侵食力は、もっと強い。どんどん木や森を破壊してゆきます。そこで働く人も、食い扶持のために後先を考えず、どんどん自然を破壊してゆきます。そのときBIがあったら、その人はそんな仕事に従事しなくとも、食べていけるでしょう。意に沿わない会社で、過労死まで働き続ける必要もなくなります。社員が集まらないサイコパスな会社はつぶれるでしょう。BIは、「お金」のホメオパティー療法だと思っています。
一方で、お金にはならなくとも、森や林を守ろうとしている人もいるでしょう。イソップさんもその一人でしょう。そういう人は、BIなどなくとも、どうにかしてそうするでしょう。僕は、そういう生き方をすで選び取った人を問題にしていません。
そうではなくて、「お金」が万能ではないと知りつつも、様々な事情から意に沿わないことをやらざる得ない人たち、家へ帰れば「誰のお陰で食ってんだ」なんて家族に八つ当たりしてしまう多くの人たちが、違う道に挑戦する機会をBIは与えてくれるのではないでしょうか。
また「BIをいくら保証しても、その減資が勝手に増えてしまえば相対的に持たざる人々が貧しくなる仕組みから逃れられないのです。」というご意見、なにかBIのことを誤解されているように思います。BIは、ただ単にこれまでの福祉政策の代替物ではなく、「労働」や「資本」のあり方のパラダイム変換を促すだろう、と想像しています。
BIは、「人は、パンのみ生きるにあらず」ということを、まさに「お金」という観点から教えてくれる試みのように僕には思えます。BIは、「お金」を稼ぐ意外の価値を追求するとさらに貧困になる、弱いかもしれないが、善良な人たちが絶望して自殺したり、そういう人がいつの世の中にもいる金もうけだけが生きがいという人に隷属することなく、独立していける機会を提供してくれるのではないでしょうか?BIは、イソップさんが言われるように「本来の人間が持っている多種多様な能力を優先して生きられるよう、枯渇資源の拡大消費型の社会から、循環自立型社会への転換」を誘発させ、「お金」の流れをそういう方向へと自然な形に変えてゆく「労働」のあり方を誘発させる潜在力を秘めているのではないか、と思っています。
僕は、はじめBIのことを知ったとき、様々な違和感や異論が頭をもたげました。でもこの考え方に沿って、いろいろ想像をめぐらすと、本当に様々な分野で、意識変革が起こるのではないかと感じるようになりました。そしてこのBIの根底にある思想は、「性善説」であろうと思います。「たとえどんな生であっても、生きていることは良いことだ」とゲーテがいっていますが、ヴェルナーがゲーテから多大な影響を受けたのもうなずけます。
でも、世界の現状を見ていれば、自然と「性悪説」になりがちな時代、この思想は容易いものではないかもしれません。そこにまた思わぬ盲点があるのかもしれません。それにBI導入は、東アジア経済圏構想などと一緒に進める必要があるのかもしれません。でも僕には、BIは魅力をもっているので、少し誤解を解きたいと思い、メールしました。
久松拝
久松さん、イソップです。
丁寧に解説していただいて、ありがとうございます。僕は実は、BIのことを最初に聞いたときは、現状を打破する、よい考え方だと思ったのも事実です。
あるいは千葉大の上村さんが言われる国際連帯税や、環境税のようなお金の仕組みが、現状を変えてくれる。そう期待したい気持ちはあるのですが、おカネの問題は、根元的なところを押さえないと、よかれと思うことを、やってもやってもすり抜ける。したがって、これをコントロールできない限り、どんな案も机上の空論に終わるだろうと考えるのです。
なるべく別の価値観を導入して生きる!とは、おカネよりも人間性に信頼を置くからであって、僕はこの方が性善説に合っているだろうと思います。BIが必要だと思うのは、人間性よりおカネに信頼を置き、おカネがなければ何も出来ないと言う間違いを犯します。これは現在のあらゆる社会問題に対して、既得利権の為政者が、いつも言い訳に使うセリフです。
現在のおカネが受け持っている強大な役割を認めれば、久松さんがおっしゃる手法は、正しいのだと思いますが、それではいつまでたっても、市井の人は無能です。本来現実の人間は、もっと自由で創意に満ちた存在なのに、おカネ経済のチカラが強大すぎて、封じ込まれているのです。僕はこの現代社会の、おカネが受け持っている役割に、人権を脅かしている危惧を感じて、反発するのです。
労働の在り方がおカネに誘導されるのは表面的なことで、人々は最終的に、自分の存在意味と労働価値を統一させたい!それを可能にするのは、自由意志でしかありません。現代の価値観では、説明することさえ簡単ではありませんが、人間の性善説こそ信じて、金善説を排したいのです。
実は久松さんのおっしゃるBIとは、僕は健全な自然界のことだと考えています。その大規模破壊を可能にしているおカネシステムを、少しでも無力化することが必要と考えます。
イソップさん 今晩は。久松です。
僕は、経済学のいうのが、嫌いでした。経済学の本は、僕の睡眠薬でした。1ページ読むと眠くなる。関ひろのさんも言っていますが、経済分析をやっているアナリストとか、もうだいぶ昔になりますが大学での経済政策の授業なんて、みんな銀行の手先のように思え、何か生きるうえで重要なものを欠いた詐欺師のように思えました。その典型例が、竹中平蔵。
BIに触れて、初めて経済というものに積極的な興味を持ちました。BIは、高度にシステム化オートメ化された社会だからこそ、必要とされるように思っています。
ベーシック・インカムの考え方は、僕には、まだまだ疑問点も多く(たとえば、誰を支給にするのかとか)これから勉強して、議論するテーマだと思っています。ところで現在のマネーのあり方から判断すると、なるべく「お金」に頼らず、シンプルな生き方をしたいというのは、僕にも、ものすごく身近な考えです。
でもイソップさんのBIの捉え方、やはり誤解があるのではないでしょうか?再度表明しますが、イソップさんの生きる基本姿勢に共感しています。でもBIのことになりますと、イソップさんの問題意識に僕が共感している部分が、イソップさんのBIにする反発になっていて、ちょっと不思議な感じがします。
たとえば、イソップさんが、「労働の在り方がおカネに誘導されるのは表面的なことで、人々は最終的に、自分の存在意味と労働価値を統一させたい!それを可能にするのは、自由意志でしかありません。」と言われますが、BI導入賛成論者が、BIなど導入したらみんな働かなくなるだろうという導入反対論者に対して、まさにイソップさんが言われるように反論しているのです。「労働」と「所得」を分離せよ、とBIは主張しているのですから。
ところで、自由意志の問題ですが、世の中には、なにかの拍子で人生の歯車が狂ってしまって行き詰ってしまったり、生まれつき身体が弱くてこの競争社会では生き辛かったり、また親の介護で余儀なく職を辞したり、自分ではどうしようもない事情で、困窮している人も、たくさんいると思います。自由意志論を完成させる上でも、BI導入は、助けこそなれ障害にはならないと思うのですが・・。BIという生存保障があれば、その人の生存不安の要素、ごく一部かもしれませんが、を軽減してくれるのではないか、と思います。
それとBIは、国際連帯税とか、環境税とか、あるいはトービン税とか、対処的な方策とは、だいぶ違うコンセプトだと思っています。
でもこのMLで議論できてよかったと思います。BIは僕自身まだ勉強中です。また機会があったら、議論したく思います。ご回答ありがとうございました。
久松拝
久松さん、イソップです。
何度も申し訳ありません。
おかげさまで、何がお互いの誤解が、いくらか見えてきました。根元的に、人間の価値を何と見るか?は共通していると思います。違うのはたぶん、おカネ経済に対する距離の取り方なのですが、
これは僕にとっても、まだデリケートな段階なので、久松さんほか、皆さんのご意見を伺いながら、僕も考えます。ありがとうございました。
by halunet
| 2009-05-18 11:38
| ベーシックインカム